幼児期のホイットニー・ヒューストン (パート1特別編)喉に針金ハンガーが刺さった事件
1967年、ホイットニーが4歳の頃のとある夜の話である。食事を済ませたホイットニーと兄のマイケル(当時6歳)はいつものように、家中を駆け回り、追いかけっこをしていた。母親のシシーは仕事で不在だった。主夫を務める父親ジョンは皿洗いを済ませ、ソファでTVで野球を見ていた。
追いかけっこに飽きたホイットニーは子供部屋に戻る。そして突き出した舌の先に、針金製のハンガーを引っ掛けて、ゆらゆらさせて、自分のベッドの上でふざけて踊った。
そこにマイケルがやってきて、おどけて踊るホイットニーを見て大声で笑った。ベッドによじ登って一緒に踊り始めた。その時マイケルの肘がハンガーに強く当たり、ハンガーの先を妹の喉の奥に突っこんでしまった。ホイットニーは泣きながら口からハンガーを外し、ベッドの上に血を吐いた。
マイケルはそれを見て恐怖で叫んだ。どうやら針金の先が口の中を酷く切ってしまったらしい。どうしよう!こんなことになって。ママに殺される!
マイケルは泣きながら何も知らない父親の元へ走った。そこに身体中血まみれ、そして口から血の泡を出したホイットニーが続いた。ホラー状態のホイットニーを見て、父親ジョンは仰天した。「お前たち、一体何をしたんだ?」
ホイットニーの容態は心配なものだった。懐中電灯で観察すると、歯の裏側から喉の奥の方まで、一筋に裂けており、傷も深いようだった。留守中にこんなことを起こして、俺は完全に保護者失格だ。シシーか帰宅すれば俺はシシーに殺される。ジョンもマイケルと似たようなことを考えていた。
ホイットニーを風呂場に連れて行き、口をゆすがせ、口の中に綿を沢山詰め込んだ。
そして3人は車に乗り込むと、近所のベス・イスラエル緊急病院へ急いだ。車の中で、ホイットニーはもう泣き止んで落ち着いていたが、4歳の頭でこう考えていた。「これがバレたら私、絶対ママに殺されるわ」
一方、母親のシシー・ヒューストンはアリサ・フランクリンのツアーに参加中で、ラスベガスに滞在していた。その晩シシーはホテルにいたが、なぜか胸騒ぎを覚えた。元々シシーは直感が強いタイプで、なんとニュージャージーの家で何かが起きていること、そしてそれが幼いホイットニーに関係していることを感じ取っていたのである。
シシーはロビーの公衆電話へ向い、自宅の番号を回した。誰も受話器を取らない。まだ9時前だから、幼いホイットニーを含め、家族全員が起きているはずである。近頃ではマイケルも、ホイットニーでさえ、ふざけて受話器を取るのだ。シシーは受話器を置いた。一体ジョンはどこで何をしているのか。不満げにため息をつくと、シシーは部屋へ戻った。
一方、ジョンとマイケルは待合室でホイットニーが治療室から出てくるのを待っていた。ホイットニーの上顎、歯の裏側から声帯の数センチ手前まで切り裂かれていて、針金があと少しで声帯に刺さるところだったという。娘を落ち着かせるために、ジョンにホイットニーの頭を抱えるように言った。医師が口の内側を縫う間、ジョンは顔を背けながら娘の頭を抱き抱えた。その後治療室を追い出され、すでにしばらく経つ。
待合室はジョン達だけで、ひっそりとしていた。無念だった。幼いホイットニーがあまりに不憫で、ジョンの胸は傷んだ。首を垂れると涙が溢れた。できるのなら自分が代わってやりたかった。マイケルはマイケルで、妹が口の中を縫わなければならないと聞いた時からずっと泣いている。
そこに看護婦に抱かれてホイットニーが待合室に出てきた。疲れ切って、呆然としている。二人を見ると泣きたいような、笑いたいような、照れているような、反省しているような、4歳にしては実に複雑な表情を見せた。口の中に薬の染み込んだ綿を思い切り詰め込まれているため、それが更に表情を理解不可能なものにしていた。
妹を見た途端、マイケルは目を手で覆って大声で泣いた。ジョンは言葉も出なかった。娘を心配させないように笑顔を無理に作ろうとしたが、涙が止まらなかった。疲れた娘を看護婦から抱き取ると、ジョンは笑顔を作り、娘の顔を覗き込んで言った。「おうちへ帰ろう」
疲労困憊のジョン達が、やっと自宅に着いたのは真夜中近かった。自宅のドアを開けて数十秒も経たないうち、電話のベルが鳴った。言うまでもなくシシーだった。彼女の感受性はいよいよ研ぎ澄まされ、ジョン達の帰宅時間をほぼ正確に察知できるほどの域に達していたのである。
ジョンが恐る恐る受話器を取ると、向こう側でシシーがイライラした声で言った
「私よ。こんな遅くまでどこに行っていたの?ニッピーに何か起きたの?」
核心にズバリである。ジョンの体は一気に硬直した。一体なぜ、シシーはニッピーの事故について知っているんだ?だが、すぐに気を取り直して続けた。「何も起きちゃいないさ。」
ジョンの答えの中の僅かなためらいを感じ取ったシシーは、有無を言わせず将軍のごとく命じた。「今すぐにあの子を電話に出しなさい!」
ジョンは隣で口をモゴモゴさせている娘の手をギュッと掴んだ。シシーに会話が聞こえないように受話器の口を押さえ、懸命にシーシー声で娘に指示を与える。
「じゃ、ニッピー、こっちへおいで。ほんの少しだけ、ママと電話でお話ししようか。ちょっと口を開けてごらん。ずいぶんわたが詰まっているね。それじゃ話せないから、少し出したほうがいいかな」
するとマイケルが近づいきて『ダディ、センセは口のワタ、出しちゃダメって言ってたよッ』と叫び始めた。ジョンは答えない。本件、シシーにはできればごく軽傷として印象付けたい。ワタの存在すら伝えないほうが良いかもしれない。わかるかね。とりあえず、マイケルは無視しておこう。あっ、シシーがホイットニーはまだか、と叫んでいるみたいだ。受話器から手に振動が伝わってくる。
「ニッピー、いいかね、元気か、と聞かれたら元気だと答えなさい。大丈夫かと聞かれたら、大丈夫だといいなさい。」怖がらせちゃ逆効果だから、優しげな表情を作ってるけど、ダディの目は真剣だよ。
「じゃ、全部じゃなくいいから、ワタ、少し出しても大丈夫?大丈夫そう?それで少し、ママとお話ししてみようか。」ああまた、マイケルがワタを出すな、と叫んでいる。今度は手をメガホンのようにして叫んでいる。ああもう、シシーに聞こえるじゃないか!!
口に詰まっている綿を半分取り除くと、ジョンは眠くてフラフラしている娘に、受話器を渡した。
「ハロウ ママ」ホイットニーはフガフガと言った。口の中を縫った直後、しかも口の中にまだワタが入った状態でまともに話せるわけがなかった。
「ニッピー、話し方がおかしいけど、一体どうしたの?」
「ワタシハダイジョブ」
「大丈夫じゃわからないわ」
「ワタシハダイジョブ」
「...今すぐパパを電話に出しなさいッ」
電話に出た夫にシシーは思い切り怒鳴った。「ニッピーの口に何が起きたの?まともに話せないじゃないの。説明してちょうだいッ!」
ジョンは言葉に詰まった。ニッピーに怪我を負わせたのはマイケルだが、それを今シシーに告げるのが賢明とは思えなかった。話をややこしくしてしまう。マイケルは普段良くニッピーの面倒を見ているし、わざとやったことじゃない。それにもう十分反省している。ジョンはこう言った。
「ニッピーが口にハンガーを掛けて、家の中を走っていたんだ。うるさいから俺が怒鳴ったら、転んだんだ」
マイケルとホイットニーは驚いた顔でジョンを見上げた。受話器の向こうでシシーの顔が変わった。「なんですって。傷はひどいの?」なんて無責任な。あなたの不注意が原因じゃないの。シシーは父親が側にいながら何故こうした事件が起きるのかが理解できず、怒りを爆発させた。自分が側にいなかったのが腹立たしかった。
事情を知らないシシーはジョンを一方的に責めたが、ジョンはそれを無言で受けた。マイケルは父親が自分のために母親に責められているのを見て胸を痛め、そして感謝した。シシーがツアーを終え、家に戻る頃には既にホイットニーの抜糸は済み、普通に話せるようになっており、いつもと変わらずマイケルと遊んでいた。
この際にシシーが感じた「必要な時に家族のそばにいてやれない」という後悔の念はこの後も彼女を度々訪れ、後に続く、彼女が結成したグループ「スイート・インスピレーションズ」からの脱退と、ソロ・アーティストへの転身への動機の一つとなった。
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ホイットニーが幼児の時に喉に怪我を負ったエピソードは、本人がHBOスペシャルの『クラシック・ホイットニー』コンサートの中でも「あともう少しで話すこともできなくなるところだった」と話しているし、他のインタビューでも過去に数回語られているが、この話には二つのバージョンがある。
シシーの著書『 Remembering Whitney』には、ホイットニーがハンガーを口に引っ掛けて、廊下をバタバタ走っている時に、ジョンに怒鳴られて転び、ハンガーが刺さったと書かれている。これが父親ジョンがシシーに説明した内容なのであろう。だが1997年のTVインタビューの中で、ホイットニーはこの事件をこう説明している。
『ハンガーを口に引っ掛けてふざけているとき、兄のマイケル(の体)が当たって、ハンガーが私の口の奥に刺さったの』
シシーの本の描写とは合致しないが、こちらが実際に起きたことではなかったか。恐らくジョンは小さなマイケルを守るために、自分が罪を被り、嘘をシシーに伝えたのだ。そして幼い二人はおそらくこの時、父親のジョンが「人を守るための嘘」を使うのを目撃したのである。そしてこれはホイットニーの人生を通じてみられる一つの特徴となった。
出典・参考記事:”Remembering Whitney: My Story of Love, Loss, and the Night Music Stopped” by Cissy Houston