「歌手ホイットニー・ヒューストンが誕生するまで」パート6: アリスタとの契約とロビンとの生活

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Text & translation: HRS Happyman



1: 「Memories」のレコーディング


ホイットニーの両親が雇ったタラ・プロダクションはデモテープのディストリビューションやプロモ撮影といった一連の準備に加え、著名なプロデューサーのみを対象としたショーケースを随時開いた。

既に歌手としての実力を備えるホイットニーを効果的に露出するための戦略の一つだった。

ホイットニーはロビン・クロフォードと住むようになってからも母親とのレコーディング・セッションやナイトクラブへの出演を続けたが、1982年にはホイットニーは前衛的ジャズバンド、マテリアルのアルバム「One Down 」に参加し初のフルのソロを聴かせている。それが「Memories」というトラックである。

この曲が生まれた経緯はこうである。当時ホイットニーとの契約に最も興味を示していたのはエレクトラ・レコードだった。マテリアルもエレクトラ所属といった繋がりで、当時のマネージャー、ジーン・ハーヴィーは強力にプッシュし、ホイットニーのボーカル参加が決まっていた。

だがスタジオのセッションに到着したホイットニーを見て、バンドのリーダー、ビル・ラズウェルは難色を示す。ビルが求めていたのは人生の機微を歌い上げられるような経験のあるシンガーだった。そして目の前の痩せた17歳にそれができるとは到底想像できなかった。

納得のいかないビルはジーンと言い合いになる。スタジオに緊張した雰囲気が走った時、ジーンはこう提案する。「僕らはもうここにいるんだし、一度彼女の歌を聴いて決めたらどうだい?」

その声を聞いたビルは鳥肌がたった。ホイットニーの声はこれまで聴いたどんな声とも違うものだった。17歳とは思えない表現力、成熟さ、そしてベルベットのような繊細さを備えていた。

この曲がリリースされた時、ヴィレッジ・ボイスの批評家ロバート・クリストガーは「これまで聴いた中で最もゴージャスなバラードの一曲」と称えている。

またホイットニーは同時期にポール・ジャバラのアルバム「Paul Jabara & Friends」にもボーカル参加し「Eternal Love」というタイトルのバラードをレコーディング。このアルバムは1983年3月にリリースされた。


2: ジェリー・グリフィンの発見


この時期、アリスタ・レコードのA & R(アーティストに相応しい曲を探してくる仕事)のジェリー・グリフィンはパブリッシャーのディオドア・オハラに「19歳のホイットニー・ヒューストンを絶対チェックするべきよ」と度々言われていた。

ジェリーは2年ほど前、シシーのショーに足を運んだ際にホイットニーのソロも見たことがあった。その日ジェリーが見たホイットニーのパフォーマンスはそれほど印象的ではなかった。

「彼女と契約しないのかい?」という周りの声に、「いや、もう少し(歌手として)成長してからの方がいいな。様子を見るよ」的な答えをしたのを覚えている。

ところがホイットニーのショーに改めて足を運んだジェリーは仰天した。2年間の間にホイットニーは格段の成長を遂げていた。ボーカルの見事さに加え、モデル業で培った洗練された身のこなし、優美さ、振る舞いは既に完成したスターのものだった。

ジェリーは飛び上がった。一刻も早くクライブに知らせなくては。

いつにないジーンの熱狂的な説明にクライブはホイットニーのショーへ足を運ぶことを決める。だが当日になってクライブはジェリーにこう伝える。「すごく疲れているんだ。今日の参加はキャンセルしてくれないか」

ジェリーは大慌てで「お願いだから見に来てくれ、見なかったら後で後悔するのはクライブの方だ」と叫ぶ。

ホイットニーはその夜のショーにクライブは遅れてやってきた。ステージ上のホイットニーは燃え上がるようだった。観客は沸いた。堂々とステージを歩き人々を魅了するその見事な歌と姿にジェリーは興奮が抑えられなかった。

一方クライブの方は全く反応していなかった。ホイットニーがバラードを歌っている時には目を閉じて感じ入っているかのように見えたが、どうやら居眠りをしているらしかった。ジェリーは落胆した。

翌日クライブはジェリーに伝えた。「確かに良い声だけれど、スペシャルだとも思えないな。オファーできるとしたらシングル契約くらいじゃないか」その言葉に焦るジェリー。クライブはわかってないんだ。ジェリーは必死に食い下がる。「もう一度チャンスをくれないか」

強力なジェリーの押しによりでクライブは2度目のショーケースに足を運んだ。数人の連れと一緒にステージ前の席を取ったが、今回も特に強い興味も示さず、ショーの間中無表情だった。

しかもショーが終わると、クライブのグループは足早に帰ってしまった。そしてホイットニーへの挨拶も無かった。

ホイットニーは「クライブは私のことを気に入らなかったのかしら?」と訝しがった。ジェリーはまたしても落胆した。

「唯一全くリアクションを見せなかったのがクライブだったの。彼がショーを気に入ったのか見当もつかなかった(00:33)」

3: クライブ・デイビスの計画


クライブは「ホイットニーのショーを見て感心し、その場で契約を進み出た」というのがクライブお得意の宣伝文句だ。だが実際の話は違う。

クライブが真剣に注意を払い始めたのはエレクトラがホイットニーとの契約の準備を進めているという情報を耳にしてからだった。クライブは自分が何か見落としていないか考え始めた。

クライブには長い間、実力のある黒人シンガーをポップ・アーティスト、つまりクロスオーバー・アーティストとして育成する夢があった。クライブはアリサ・フランクリン、ディオンヌ・ウォーウィックらでそれを実現しようとしたが、彼女達のイメージは既に固まっており、クロスオーバーのスケールには限界があった。

そこに登場したホイットニー。抜群の歌唱力で音楽的な柔軟性を持っている。既にモデルとしてのキャリアがあり、見た目はほとんどアイドルだ。キャラも人に好かれる何かがある。しかもアリサがゴッドマザーでいとこがディオンヌ。話題性としても完璧ではないか。

クライブはこれまで自分が探し求めていたものがホイットニーの中に揃っていることを認識したのである。

一方、80年代はマドンナを筆頭とするポップ・ミュージックの全盛期。ホイットニーのような歌唱力を持つアーティストが大衆に受けるかクライブにも定かでなかった。ホイットニーには歌手としての実力があったが、それが必ずしも売れるアーティストになるとは限らないのだった。

既にエレクトラはホイットニーとの契約に向けて動いている。これは賭けともいえた。クライブには即断が求められていた。「もしかしたらこの娘なのかもしれない。」

そして長年の夢をホイットニーという可能性に託してみることを決断したのである。

ホイットニーはエレクトラより正式にデビュー契約のオファーを受けていた。そこにアリスタからのオファーが続く。そして今度はホイットニーが選択を迫られた。

エレクトラの方が大きな前金を提示したため、父親のジョンはホイットニーがエレクトラを選ぶことを望んでいた。一方アリスタは前金は少ないものの、デビューアルバム作成のための予算として20万ドルを提示。シシーとホイットニーにとってこれは大きな魅力だった。

アリスタはいとこのディオンヌに加え、アリサ・フランクリンやバニー・マニロウなどのレジェンドを擁するレーベルである。

加えてクライブは契約の一部として「キーマン条項」と呼ばれる前代未聞の内容を盛り込んでいた。その条項はもしクライブが何らかの理由でアリスタを去る時、ホイットニーはクライブと共にレーベルを離れることが出来るというものだった。

熟考の上、シシーとホイットニーは最終的にアリスタを選ぶ。1983年4月、19歳のホイットニーは正式にアリスタとデビュー契約を結んだ。

4: 家を追い出されたロビン


一方話はロビンに移る。ホイットニーと一緒に住み始める少し前のことだ。あと一学期で卒業というときにロビンは大学を中退した。ホイットニーの夢の実現に全力で関わる決心をしたからである。当時女子バスケットボールにプロリーグは存在せず、将来コーチになる興味も全く、急にバスケットボールを続ける意味が見えなくなったのだった。

ロビンはバスケットボール部の選手として奨学金を得ていたため、それを無責任に放り出す結果となった。無職のまま無給で走り回っている。ロビンの母親ジャネットは嘆いた。ホイットニーのために大学を中退したロビンのことを周りの人間達は無謀と笑った。

加えて母親ジャネットは、ロビンの様子が最近おかしいことに気がついた。夜中遅く、ひどい時は翌朝まで帰らず、帰れば一方的にベラベラ話したり、笑ったかと思えば冷たい表情で部屋に引きこもって一日中出てこない。こんなロビンは見たことがなかった。顔も以前よりげっそりとしていた。こんなことはホイットニーと出会う前にはなかったことだった。

ジャネットはロビンを呼んで説明を求める。ロビンは母親にホイットニーと一緒に自分がマリファナやコカインを使用し始めたことを白状する。ドラッグを紹介したのはホイットニーの兄ゲイリーとその友人だった。既にドラッグの使用が二人の生活パターンに影響を与えていた。

勝手に大学を中退したと思ったら次はこれだった。ジャネットはホイットニーを大いに気に入っていたが、さすがに仰天し即座にシシーに電話を入れた。

「シシー?ロビンの母親のジャネットよ。今ロビンから二人がドラッグを使っていると聞いたのよ。あなたは状況を把握しているの?こう言っては何だけれど、ホイットニーに出会うまでロビンにこんなことはなかったわ。

ロビンが翌日家に戻ると鍵が変えられていた。母親に家を追い出されたのである。

帰る場所をなくしたロビンは暫くの間友人の家や車、夜更けにホイットニーの部屋にこっそり忍び込んで日々を送る。まずは金を稼がなければならない。ロビンは空港で航空会社のチェックインアシストの仕事を得る。勤務時間は夜中の4時から朝の10時という辛いシフトだった。

この時期ホイットニーにはデビューに向け様々なことが周囲で起き始め、精神的な支えとしてロビンの存在をこれまで以上に必要としていた。だがこの空港の勤務時間のため、ロビンは必要な時にホイットニーのそばにいてやることが出来なかった。大学まで辞めたのに本末転倒と言えた。それがロビンは悔しかった。加えてホイットニーは電話で話すたびに「ロビンがここにいてくれたら」と言うのだった。

仕事を得てから、ロビンは母親の元へ戻り詫びた。そして心を入れ替えたと誓った。ジャネットは目に涙を溜めながらロビンを抱きしめた。その後しばらく空港での仕事を続け貯金を作ってから、ロビンは再び家を出た。今度はホイットニーと共に暮らすためだった。

家を出るロビンを見送ったジャネットは料理が苦手な二人を心配していた。ロビンの意思の強さと自立心を信じてはいたが、この先二人がどうなるのか全く想像できなかった。ロビンが2度と麻薬の誘惑に負けることがないようジャネットは祈った。

5: ロビンとの同棲生活が始まる


ロビンとホイットニーが一緒に住んだウッドブリッジのアパートはなかなか悪くなかった。内装はモダンで大きな2つのベッドルームとリビング、裏にはテニスコートがあった。

だが持ち金の乏しかった二人はなんとか引き出しのついたベッドフレームを2つとフロアランプを購入。ランプは一つしかないので必要に応じて別の部屋へ運んで使わなければならなかった。

ターンテーブルと音の良いスピーカーも一式買った。それだけで十分だった。二人はチャカやアル・ジャロウのアルバムをかけ夜更けまで音楽論議にふけた。今や二人には共有するゴールと夢があり、未来は希望に満ちて見えた。絆はこれまで以上に強いものになっていた。



参考:
”Remembering Whitney: My Story of Love, Loss, and the Night Music Stopped” by Cissy Houston
” A Song For You: My Life with Whitney Houston”
by Robyn Crawford

 

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