「歌手ホイットニー・ヒューストンが誕生するまで」パート7: デビューアルバムの制作

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Text & translation: HRS Happyman


1: ロビン・クロフォードとの肉体関係を終える


ホイットニーと一緒に暮らし始めたロビンは変わったことに気がついた。ホイットニーは家では静かで部屋にこもっていることが多かったが、時々部屋で大声で誰かと話している。真剣な口調な時もあれば、甘えた口調の時もある。妙におどけた話し方の時もある。初めは電話の会話かとも思ったがそうでもない様子だ。

ある日遂にロビンはホイットニーに尋ねた。「ニッピー。部屋にいる時、一体誰と話をしてるの?」

すると驚いた顔でホイットニーは振り返った。
「神様に決まっているじゃない」

アリスタとの契約後間もなく、ホイットニーはロビンに青い背表紙の聖書をプレゼントとして渡した。そして二人の間の肉体関係を終えたいと告げた。「人々が二人の関係知られたら、全ての計画が台無しになるんだ」とアリスタやクライブからのアドバイスを受け、ホイットニーが決断したのだった。

「誰がなんと言おうと私達は真実を知っているじゃない」ホイットニーは言った。「ロビンを愛してる。でももし人々が私達の関係を知ったら、今後の計画が難しくなると思うの。それに聖書も言っているようにこのままじゃ私達二人とも地獄に行くことになるわ。」

そしていつの日か自分は愛する男性と出会い、家庭を築きたいのだと言った。ロビンはホイットニーとなら地獄へ行ってもいいと思ったが、その申し入れを受け入れた。

この時期ロビンは正式にホイットニーのアシスタントとして雇われた。ホイットニーにプロジェクトが持ち込まれる際、それらにまず目を通すのはロビンの役目だった。そしてインタビュー、撮影、レコーディングに至るまで、ロビンが全てのコミュニケーションの中心となった。

ホイットニーはロビンにお願いする。「私は自分の仕事に集中するから、ロビンには外側から何が起きているか見守って欲しいの」

ホイットニーが1983年にアリスタと契約をしたが、すぐにアルバム制作が開始されたわけではない。クライブはプロデューサーやソングライターの間にホイットニーへのハイプを作り出し、優れた楽曲を集める必要があった。そして最も効果的な方法を知っていた。


2: マーヴ・グリフィン・ショー」に出演


1983年4月、レコード契約を済ませた2週間後にクライブ・デイビスはホイットニーと共に人気番組「マーヴ・グリフィン・ショー」の収録に参加。ホイットニーはミュージカル「Wiz」のナンバー「ホーム」を歌う。

バンドがイントロを演奏を始めた時、ホイットニーは極度に緊張していた。初のテレビ番組出演。これで失敗したら全てを失うのだと思えば無理もない。一方カーテンの裏には母親がいてバンドの指揮をしていた。

シシーはイントロのテンポがスローすぎるのに気づき、本番中バンドの前に進みでて指揮をかって出たのである。

明らかに緊張した面持ちで歌い始めたホイットニー、初めのフレーズは心細く消え入るようだった。だが曲が進むにつれ歌声は次第に力強さを増し、スタジオに堂々と響き渡り始めた。そしてエンディングまでには完全にオーディエンスの心を奪っていた。驚嘆した観客は新しい才能に惜しみない喝采を送った。ホイットニーは19歳だった。

1983年のCBCニュースより。19歳のホイットニーのショーケース
1983年のクライブのCBCニュースでのインタビュー
1983年、19歳の頃に出演したカナダドライのTVコマーシャル


3: 難航するプロデューサー探し


クライブの狙い通り、「マーヴ・グリフィン・ショー」出演をきっかけにホイットニーの名前は認知度を増した。だがデビューアルバムのためのプロデューサー選びは依然と難航していた。

当初ミニー・リパトーンの夫でありプロデューサーのリチャード・ルドルフがこの役目を打診されたが実現しなかった。クインシー・ジョーンズの名前も上がったが、既に女性R&Bシンガー(パティ・オースティン)のプロデュースを引き受けているという理由で断られる。

そんな中ホイットニーの歌う「ホーム」を観て「是非仕事がしたい」と申し出た人物がいる。同じくアリスタ所属のR&Bアーティスト、ジャーメイン・ジャクソンだった。マイケル・ジャクソンの兄である。


4: ジャーメインとの情事


1983年ホイットニーはロサンジェルスに10日ほど滞在し、ジャーメインと数曲のレコーディングを行う。その中にはNobody Loves Me Like You Do, If You Say My Eyes Are Beautiful、ジョン・トラボルタ主演の映画「パーフェクト」に使われたデュエット「Shock Me」、録音されながらリリースされなかった「Don’t Look Any Further」も含まれる。ジャーメインはホイットニーの才能と美貌にメロメロになった。下のビデオを見ればその具合が明らかである、

ロビンはホイットニーがロサンゼルスから電話を掛けてくる度に、ジャーメインのノロケ話を口にすることにイライラしていた。話題を変えても気づくとジャーメインのことを話し始める。

そのうちにマイケル(・ジャクソン)よりジャーメインの方がいい声だと思うのよね、などとロビンが気絶しそうになることを言い始めた。

ホイットニーがロサンゼルスから帰宅後、二人の間に何が起きたのか聞き出すロビン。ホイットニーはジャーメインと近くのホテルで3回ほど肉体関係を持ったと白状する。ロビンの心は一気に乱れた。

そこでホイットニーは止まらずこんなことまで話し始めた。ベッドに二人で横たわっている時、何げなくジャーメインの髪に触れたホイットニーはギョッとした。まるでヘルメットのように固かったからである。

「聞いたら『マイケルに貰ったクリームを使ったんだ』っていうの。だがら『誰からもらったか知らないけど、こんな変なもの使わない方がいいと思うわ』って言ったのよ。」

ロビンは口も聞けなかった。ジャーメインのポマードの話などどうでも良かった。ホイットニーとのロビンの肉体関係は既に終わっており、ホイットニーが男性の恋人を持つことも承知済みの話である。

だが多くを犠牲にしていたロビンにこの状況は不公平に見えた。この夢は二人で必ず果たすと何度も誓ったはずである。そしてほんの最近までその絆は揺るがないように見えた。

だが目の前のホイットニーは約束の半分ほども真剣でないように見える。一方ロビンの中にはホイットニーに対する思いが残っており、ホイットニーはロビンのことをまるで忘れたように見えたのだった。

ロビンの中に突然嵐のような感情が込み上げた。ロビンは立ち上がり自分の部屋へ行き、部屋中の全てのものを床に投げ出した。ベッドやドレッサーをひっくり返した。

メチャクチャになった部屋に呆然と立ち尽くすロビンを見て、ホイットニーは「早く片付けなさいよ」と一言言ったのみだった。

ジャーメインは別居中だが妻と離婚していなかった。そして二人の関係は長く続かず消滅した。ホイットニーとジャーメインの関係はまさしく「Saving All My Love For You」の歌の世界と言えた。

1984年ホイットニーが出演したTVコメディ「ギブ・ミー・ア・ブレイク!」の一コマ。
中々見事な台詞回し
1984年にジャーメインと出演したテレビドラマ「As The World Turns」での口パク・ライブシーン


5: 父親ジョンとのミーティング


アルバムの制作が進行しホイットニーの名前が業界内で広まるにつれ、早くもホイットニーがレズビアンであるという噂が囁かれ始める。相手はアシスタントのロビンだというのだ。

その噂に一番嫌悪感を示したのはシシーだった。直ちにジョンに連絡し事態の収束を要求する。

説明のために、ホイットニーはロビンと共にジョンの自宅へ向かった。そしてジョンに「ロビンは私のことを初めから信じてくれた。私にはロビンが必要なの」と説明した。

「ダディ。ロビンは私のことを理解してくれる。ロビンにいつも私の側にいてもらいたいの」

ホイットニーは自らの意思をはっきり伝えた。ジョンはやはりホイットニーに甘かった。ジョンは深く頷いた。「わかった。じゃこれはどうだい?他の若い男二人とダブルデートするのさ。」

偽のデート?一体なんのために?ロビンは苦笑した。そうするつもりはないことをきっぱりと告げた。二人の肉体関係は既に終わっており、詮索される理由もロビンには見つからなかった。

だが80年代ホモセクシャリティは扱いがセンシティブな題材だった。公に知られるとキャリアを失いうる時代で、公にカミングアウトしているアーティストはごく稀だった。

ドラッグクイーンがTVなどで市民権を獲始めたとはいえ、80年代はまだホモセクシャリティがタブー視されていた時代である。ビジネス面への影響を考えれば思慮するべき問題と言えた。ホイットニーはイメージが全ての世界に身を投げるのだ。だがロビンはそうしたことを意味を感じないタイプだった。それを口に出すこともあった。ロビンは常にホイットニーの意見を尊重したし、忠実で誠実だった。だがその率直さはホイットニーの家族に時として扱いにくいものと映った。

6: ファースト・アルバムのリリース


その後もテディ・ペンターグラスとのデュエットなどをレコーディング後、ホイットニーのデビュー・アルバム「そよ風の贈り物」は1985年2月14日のバレンタインデーにリリースされた。ホイットニーは21歳だった。

制作には2年が掛けられた。カシーフ、ジャーメイン・ジャクソン、マイケル・マッサー、ナラダ・マイケル・ウォルデンと言った超一流プロデューサーが共同プロデュースしたこのアルバムは、ビルボード200に3年以上ランクイン。

リリース当初は低調な反応だったが、リリースから1年以上経った1986年3月にチャートで1位に急上昇。14週間その座を維持。

アメリカでは1400万枚の売上げダイヤモンド認定を受け、アルバムは世界中で2500万枚を売り上げたと言われる。ローリングストーン誌はホイットニーを「ここ数年で最もエキサイティングな新人の一人」と称賛した。

参考:
”Remembering Whitney: My Story of Love, Loss, and the Night Music Stopped” by Cissy Houston”
”A Song For You: My Life with Whitney Houston”
by Robyn Crawford

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