ホイットニー・ヒューストン 声の故障 Part 2 1994年7月 FIFA World Cup

Pocket

ホイットニー・ヒューストン、キャリア最大の「ボディガード」ツアー。期間は1993年7月から1994年11月に渡り、多数のスタジアム・コンサートを含む計120公演。この期間にホイットニーの声は深刻なダメージを経験している。

結婚、出産。そしてボビ・クリス出産後、たった4ヶ月でスタートしたこの嵐のようなツアーはホイットニーの声を酷使し、質感を変えてしまう。母親シシー・ヒューストンの著書「Remembering Whitney」にはあるエピソードが描かれている。

1994年7月。ホイットニーはロサンゼルスのローズボール・スタジアムで開催されたFIFA ワールドカップのフィナーレに出演、メドレーのパフォーマンスが予定されていた。

だがこの時点で1年間酷使してきたホイットニーの声帯には潰瘍ができており、極めて深刻な状態だった。イベント数日前にドクターはホイットニーにストップをかける。「これ以上無理をしたら、声帯に取り返しのつかないダメージが起きる可能性があります。歌うのをすぐに止めてください。そして2週間は喉を完全に休めて下さい。」

映画「ボディーガード」とサントラの大ヒットにより、当時最大のスーパースターだったホイットニーのパフォーマンスには多額の契約金が交わされていた。万が一のためにセイフティ・テープが録音されていたがプロモーター達は声のコンディションに関わらずライブで歌うことを強く要望。ホイットニーはプレッシャーを感じていた。

ホイットニーは恐怖に慄き、シシーに連絡を入れた。シシーはエンヤコラとばかりロサンゼルスへ向かう。シシーがホテルの部屋に着くと、ドアを開けたホイットニーは泣きながら母親にすがりついた。

二人はソファに腰を下ろすと、ホイットニーは子供の頃のようにシシーの膝に頭を埋めてこう呟いた。「一体どうしたらいいの」その頬には涙が次々とこぼれ落ちていた。ホイットニーは周囲の期待に対してNOという術を身につけていないのだった。

翌朝のミーティングに出席した母親シシーは関係者にキッパリ断言した。「当日はセイフティ・テープを使うわ」関係者の大いなる失望の中、ホイットニーはこのイベントで異例の口パクのパフォーマンスを行う結果となった。ホイットニーはいつもセーフティ・テープの録音を軽視していたが、この時はテープに救われたことになる。

また医者の命令に従って、ホイットニーは2週間分のコンサートをキャンセルしなければならなかった。そうするとスタッフやミュージシャンには期待していた収入が入らないことになる。家族を養う責任のあるスタッフも多く、自分の事情で他人が犠牲になるのは耐えられなかった。ホイットニーは自らスタッフ達の為の経済的なアシスタントを申し出た。

「ママ、彼らのことを面倒見てあげなくちゃいけないわ。彼らには養わなきゃならない家族がいるんだもの」ホイットニーは自分がつまずくと引き起こされる様々な波に押しつぶされそうになっていた。自分に休養が一番必要な時に、周囲の人間のことを考えなければならなかった。

ホイットニーの兄、マイケルはある時シシーにこう言ったことがある。「何百人の人間に給料を払って、何千人のファンの為に毎晩毎晩歌って..その責任の全てがあの痩せた肩にのしかかっている。俺にはニッピーが一体どうやってそれに耐えているのか、見当もつかないよ」

ホイットニーは心身ともに疲れ切っていた。浮気性のボビー、まだ幼児のボビ・クリス、驚異的に飛躍したキャリア。そして裏ではドラッグへの依存が深刻化していた。ホイットニー自身にも自分がどのように全てに耐えているのか、わからないのだった。

参考:
”Remembering Whitney: My Story of Love, Loss, and the Night Music Stopped” by Cissy Houston”

コメントを残す