ホイットニーが最も緊張したパフォーマンス? 2004年 ワールド・ミュージック・アワード授賞式
2004年9月、ラスベガスで行われた第17回「ワールド・ミュージック・アワード」授賞式にサプライズ出演したホイットニー。クライブ・デイビスによる「世界で最高のシンガー」という情熱的なイントロダクションに続き、ホイットニーは「I Believe In You And Me」 と「I Will Always Love You」のメドレーを披露した。
声はベストのコンディションでは無かったが、彼女ならではのユーモアを湛え、「女王」の風格を備えたステージングだった。
だがホイットニーの母、シシー・ヒューストンの著書「Remembering Whitney」によると、このパフォーマンスの際のホイットニーの緊張ぶりは並大抵のものではなかったらしい。
この時期のホイットニーを振り返ってみよう。2002年の「Just Whitney」の低調なセールス、100ミリオン・ドルの賠償金を求め彼女を訴えた父親ジョンはホイットニーと和解前に死去。結婚生活の問題も更に悪化。2003年の秋、アトランタの邸宅でボビーに殴られたホイットニーが警察に通報した際の音源がマスコミを大騒ぎさせる。加えてドラッグへの依存もさらにエスカレート。2004年の春には初めてリハビリ施設に入所しており、これはリハビリ後、初のパフォーマンスだった。
2000年にアリスタのプレジデントとしての立場を追われたクライブ。その後Jレコードを設立した後、2004年2月にはRCAレコードのCEOとして就任し、その結果アリスタの監督役として返り咲いた。そして彼はこの授賞式で「ライフタイム・アチーブメント・アワード(生涯功労賞)」を受け取ることになっていた。
その際のゲストとして、パフォーマンスの申し出をしたのはホイットニー本人で、クライブの依頼ではない。申し出を受け入れながらも、クライブはホイットニーが本当に歌える状態なのか確信が持てなかった。2000年にクライブのロックンロール殿堂入りした際、ホイットニーは彼の為のパフォーマンスをドタキャンしたことがある。彼女の出演をギリギリまでトップ・シークレットとして扱い、リハーサルが終了するまで発表しなかったのはそこに理由がある。
一方ホイットニーも、自ら出演を申し出たにも関わらず、自分に声がどれだけ残っているか自信がなかった。長い間ツアーもしていない。加えてこれは150カ国以上で放映される一大イベントである。全世界の注目がホイットニーの声に注がれていた。当日の彼女の緊張が限界を超えていたのも想像がつく。
ホイットニーは不安な時はいつもするように、このイベントにシシーを呼んでいた。パフォーマンスの前に控え室へ寄ると、シシーはホイットニーが怯えきっているのに気付いた。
「『私風邪をひいたのかもしれないわ』という彼女の声は、緊張で震え、うわずっていた。シシーはピシャッと言い切った。『おまえは風邪なんか引いちゃいないよ。大丈夫、唯一必要なのは神様を信じることよ』」
二人は導きを求め神に祈った。そしてホイットニーはステージへ向かう。シシーも実はホイットニーの声のコンディションを心配していた。ホイットニーはシシーにステージの正面に座って欲しい、と頼んでいた。ステージの明かりが落ち、ディズニー映画の主題歌のような優しいアレンジの「I Believe In You And Me」をホイットニーが歌い始めた時、シシーの口から漏れた言葉は「神様ありがとう(サンキュー・ジーザス)」だった。
「歌の出だしを聞いた途端、これなら大丈夫、と私は確信した。ステージ上のニッピー(ホイットニーのあだ名)は私は微笑みあった。続いて「I Will Always Love You」を歌い始める頃には観客は既に総立ちで、ホイットニーに向かって手を振り、まるで教会にいるかのような雰囲気だった。私はもう誇らしさで一杯で、どう自分を抑えたら良いかもわからなかった。あの子は観客をまさに熱狂させていた。私はあのパフォーマンスの一瞬一瞬を味わい、歌い終わるころには、頬に涙が溢れていた。」
シシーだけではない。特にホイットニーの壮絶な苦闘を知る関係者達には、実に感慨深い「復活」であった。ステージ正面に座るクライブの元奥さんはパフォーマンス中、堪えきれずにポロポロと涙を流している。
また、この時舞台裏ではセリーヌ・ディオンが記者会見中だったが、ホイットニーのパフォーマンスがモニターに映ると会見を中断し、自らモニターの音量を上げ、ホイットニーの歌を聞き入ったことで知られている。セリーヌはホイットニーの大ファンだった。
パフォーマンスを終えたホイットニーはステージに立ちながら、観客からの圧倒的な歓声を全身で浴びていた。ドラッグや家庭内暴力、様々なトラブルの中から立ち上がり、姿を現したホイットニーを人々は受け入れ、温かく励ましたのである。
一方、シシーはエンヤコラとホイットニーの控え室へ急猪田。
「ドレス・ルームへ入るとホイットニーは緊張から解かれ、安堵と感動で激しく泣いていた。私は歩み寄って彼女を抱きしめた。あの子が誇らしくてたまらなかった。ソファに座るとホイットニーは私の膝に顔を当てて咽び泣き続けた。(シシーはこの時白いスーツを着ていたが、ホイットニーがあまりに泣いたために折角のスーツがメイクだらけになってしまったらしい 爆)私は彼女のことを揺すりながら、彼女をどれだけ誇りに思うか、繰り返し言い聞かせた。」
ホイットニーはこの時の経験について、「まるで人々に抱きしめられているようだった。自分が愛されているんだって感じたの。」「ワールド・ミュージック・アワード」授賞式でのパフォーマンスはホイットニーにとって2004年のハイライトと呼んで良いイベントであった。残念ながら良いニュースは長続きしない。このイベント後ホイットニーを取り巻く環境は急速に悪化し始める。
出典・参考記事:”Remembering Whitney: My Story of Love, Loss, and the Night Music Stopped” by Cissy Houston