ホイットニー・ヒューストン「アメリカ国歌斉唱」絶唱秘話その2 スタジオでのレコーディング編

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Translation & Article HRS Happyman

ホイットニー、1991年の米スーパーボウル国歌秘話、パート2。この記事はロビン’・クロフォードの著書「A Song For You 」と音楽ディレクターのリッキー・マイナーが2022年に受けたToday.com のインタビューがベースになっています。リッキーが語るホイットニーに授けられた「大衆を一つにする」類稀な能力とは。そしてスーパーボウル後に続いたスキャンダルについて。

第25回米スーパーボウルでの国歌斉唱パフォーマンスを承諾した際、NFL(アメリカン・フットボール・リーグ)はホイットニーに「セーフティ・テープ」の録音を依頼した。当日病気で歌えない場合や放送障害が起きた際に使うテープのことで、万が一に対するプロトコールだった。そして彼女は1991年の1月中旬、ロサンジェルスのスタジオで国歌のボーカルをレコーディングしている。

レコーディングの数ヶ月前、ホイットニーはディレクターのリッキー・マイナーに「唯一インスピレーションを感じるアメリカ国歌斉唱は1983年のマーヴィン・ゲイの(NBA All Star Game)パフォーマンス」だと伝えていた。このパフォーマンスでマーヴィンはドラムマシンの刻むリズムのみをバックに、浮遊感のある素晴らしいボーカルを披露している。リッキーは今回のアレンジメントをオリジナルの3拍子から4拍子に変えた。つまり1拍子足すことで、ホイットニーの声の伸びやかさが生かせるのではないか、と狙ったのである。

だが、3拍子のオリジナルを4拍子に変えるというアイデアにたいして、オーケストラのコンダクターとNFL エクゼクティブ両方から懸念が寄せられた。観客が一緒に歌えないのではないか?コンダクターのJaha Lingは「もっとトラディショナルなアレンジの方が良いのでは」とリッキーに懸念を伝えている。それらの意見に対し、リッキーは「僕たちを信じてくれ、まずはホイットニーのボーカルを聞いてほしい」と答えていた。全てがホイットニーの歌にかかっていた。

そしてレコーディングの当日。ここからはロビン・クロフォードの著書「A Song For You」が詳しい。スタジオに到着したホイットニーにリッキーは飛びついた。その2種間ほど前、自身がアレンジし、フロリダ・オーケストラが演奏したテープをホイットニーに郵送していた。
「テープ、聞いてくれた?どう思う?」

「聞いていないわ。忙しかったのよ」

ホイットニーは聞いていなかった。リッキーは愕然とした。ホイットニーは初主演作となる「ボディガード」のオーディションを直後で、それまでテープを聞く暇も余裕もなかっただがホイットニーは落ち着いて言った。「大丈夫。トラックをプレイして頂戴」

ホイットニーはトラックを一回通して聞いた。そして2回目のプレイバックを半分まで聞くと、止めさせた。「OK. Let’s Do It」と言って立ち上がると、そのままブースに入り、国歌を歌ったのである。完璧だった。スタジオ内の人間は皆圧倒された。あまりに完璧だったので、もう一度歌う必要もないけれど、せっかく喉が温まったのなら、もう一回歌っていけば?30分も経ってないじゃないか的な感じで、ホイットニーは2度目も歌った。

普段、自分が吹き込んだものを聞くまでスタジオを出ないホイットニーは、その日珍しくプレイバックも聞く事なく、「じゃあね」と言ってスタジオを出た。彼女の頭は次のプロジェクトのことで既に一杯だった。

リッキーによると最終バージョンは、「And the rocket’s red glare」という箇所を除き、全てファースト・テイクが使われている。この箇所のみ、彼女の喉が温まっていた2度目の歌から使われている。

「確かに彼女のボーカルが最高の時期だった。アルバムにツアー、あの頃僕らは仕事をし続けていたからね。だから彼女の喉が使われた状態だったのは確かだけれど、それにしても彼女には生まれつきの何かがあった。クレイジーに聞こえるけど、(ホイットニーは)ろくに声のウォームアップもしていなかったんだ」

だがホイットニーのレコーディングを聴いたNFLの上部側はボブ・ベストを通じ、ホイットニー側に歌い直しを打診してきたのである。戦時下に歌われる国歌としては派手すぎるのではないか、というのが彼らの主張だったが、ホイットニーの父親ジョンはその打診を断固退けた。

そして第25回スーパーボウル当日、1991年1月27日。会場はフロリダのタンパ・スタジアム。ジャイアンツとバッファロー・ビルズの対決だった。アメリカがペルシアでの湾岸戦争に参加して10日目だった。非常時下の開催ということで、スタジアム内に大量の州兵や警官が配置され、物々しい雰囲気だった。

国歌斉唱のパフォーマンスに際し、オーケストラのメンバーは黒いスーツにタイ、そしてホイットニーは黒のスリーブレスのドレスを着る事になっていた。だが当日、サウンドチェック中に、ホイットニーは「どうしよう。これじゃ凍えちゃうわ」とロビン・クロフォードに訴えた。

そこでロビンが提案したのが Le Coq Sportifのトラックスーツだった。それに白のナイキのスニーカー、そして白のヘアバンドを合わせ、ほぼノーメイクというシンプルな姿でホイットニーはステージに立った。そして世界中を揺るがせ、永遠に語り継がれるパフォーマンスを残した。27歳の時だった。

ホイットニーの燃えたつような国歌斉唱は、戦時下にあるアメリカで、愛国心を高める追い風の一つとなった。だが、それだけではない。ドキュメンタリー「ホイットニー」でプロデューサーのベイビーフェイスが語っているように、アメリカの黒人達は国歌に対して複雑な思いを抱えている。

歌詞に「自由の国」という箇所があるが、人種差別が根強く残るアメリカに、果たしてそう呼ばれる資格があるのか?一体誰にとっての自由なのか?だがホイットニーの歌唱にはそうした苦い思いを超越させる特別な何かがあった。そしてそれはブラック・コミュニティに深い感動とプライドをもたらしたのである。

ホイットニーの熱唱は人々に熱狂的な反応をもたらした。全メディアがホイットニーの国歌斉唱を褒めちぎった。だが、3日後イベント・プロデューサーのボブ・ベストがホイットニーの歌が口パクであることをインタビュー中に漏らした時に、それはちょっとしたスキャンダルとなった。人々は「なーんだ。あれはスタジオで録音したのか(それじゃよく仕上がって当然)」とやや落胆したのである。それも心理的に理解できる話ではある。あまりに完璧な歌唱だったから。

だがホイットニーにとって、これは不公平で、奇妙な話だった。そもそも「セーフティ・テープ」を録れと言ってきたのはNFLだ。ホイットニーはライブで歌っても全く構わなかったのだ。マイクを切って、テープを使う決定をしたのもNFLである。過去にニール・ダイアモンドやダイアナ・ロスらが、口パクのパフォーマンスをしているじゃないか、問題になったことがあったか?それが何故、これがスキャンダルとなるのか。私が本当は歌えない、とでも言いたいのか?ホイットニーにとっては実に失礼で、馬鹿げた話だった。

その答えとして、3ヶ月後に放映されたHBO の「Welcome Home Heroes」のコンサート冒頭、ホイットニーはアメリカ国歌をシンプルな演奏の元、(キーは落としていたが)力強く歌い切った。湾岸戦争から帰還した兵士と家族達、3000人の観客は熱狂した。

ホイットニーはスーパーボウル当日、マイクがオンかオフに関わらず、勿論全力で歌っていた。ロビン・クロフォードは彼女からわずか10メートルほど離れたところにいたが、ホイットニーの歌声を聞き取っている。

ホイットニーは国歌斉唱をもってアメリカを一つに繋いだのである。リッキー・マイナーはこう語っている。「歌の上手な人間は山ほどいるけれど、ホイットニーのように「人々を繋ぐことのできる」シンガーがどれだけいるだろう?こうしたことは教えられて身につくものじゃない。持っているか、持っていないかのどちらかなんだ。彼女には民衆を一つにまとめる力があり、あの日ホイットニーがしたのは正しくそれだった。」

出典・参考記事:

A Song For You: My life with Whitney Houston
by Robyn Crawford

How Whitney Houston’s iconic Super Bowl national anthem became the gold standard

By Alexander Kacala