「そよ風の贈り物」前人未到のセールスを記録したデビューアルバムとその背景

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Whitney Houston | Whitney Houston (1985)

1. You Give Good Love – 2. Thinking About You – 3. Someone For Me – 4. Saving All My Love For You – 5. Nobody Loves Me Like You Do – 6. How Will I Know – 7. All At Once – 8. Take Good Care Of My Heart – 9. Greatest Love Of All – 10. Hold Me

全世界の販売枚数:2200万枚
米ビルボード200最高位:1位
米ビルボード200にチャート・インした週数:176


3曲の全米No.1ヒットを生み
史上最大のセールスを記録した
驚異のデビューアルバム



1985年のバレンタイン・デーにアリスタ・レコードからリリースされた、ホイットニー・ヒューストンのファースト・アルバム「そよ風の贈り物」。

伝説のレコード・エクゼクティブ、クライブ・デイビスの総指揮によるこのアルバム、リリース直後はセールスが低調であった。だがシングルが立て続けにヒットとしたことで、徐々にセールスを伸ばす。そして遂に翌1986年の米ビルボード200で、合計14週に渡り1位を獲得。

カナダ、オーストラリア、ロルウェー、スウェーデンでもチャート首位を獲得。日本のオリコンLPチャートでは、初回盤LPが76週チャート・インし、最高4位を記録している。世界中で2200万枚のセールスを記録する超ヒット作となり、アラニス・モリセットが後にがその記録を塗り替えるまで、最も売れたデビューアルバムの座にあった。

シングル・カットされた「すべてをあなたに(Saving All My Love For you)」
「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール (Greatest Love Of All)」「恋は手さぐり(How Will I Know)」が全米No.1を獲得。「そよ風の贈り物」は1985年のビルボード誌の年間チャートで、黒人女性アーティストとして初めて1位を獲得する歴史的なアルバムとなった。

1986年の第28回グラミー賞では主要4部門でノミネート、「すべてをあなたに」で最優秀女性ポップ・ボーカル・パフォーマンス賞を受賞。

パンチのあるパワフルなボーカルが印象的なナラダ・マイケル・ウォルデンによるミディアム・パーティー・チューンの「恋は手さぐり」、

瑞々しく、ダイナミックなボーカルが堪能できる自分への愛を讃えたバラード「グレイテスト・ラブ・オブ・オール」、

そして彼女の持つグルーブ感が遺憾なく発揮されたカシーフ・プロデュースのアーバン・ソウルの傑作「そよ風の贈りもの」

ドラマチックでソウルフル、見事な歌いっぷりが印象的なバラード「すべてをあなたに」、

包み込むようなテディ・ペンダーグラスの声と瑞々しいホイットニーの声が素晴らしいコントラストを描く優しいバラード「Hold Me」など、このアルバムのホイットニーの声は、瑞々しく気品があり、一曲一曲が丁寧に歌い込まれている。

ポップ全開で楽しめた2作目「Whitney」と比較すると、この作品には控えめな印象がある。今改めて聞き返すとR&Bとポップのバランスの良くとれたアルバムだ。統一感はないけれど、アルバム全体がホイットニーの幅広い才能を示すための名刺代わりのような印象か。

当時は興味のなかった「Thinking About You」や「Someone For Me」などの曲でも、今振り返って聞くと、ホイットニーのボーカルの躍動感に圧倒される。

「恋は手さぐり」「すべてをあなたに」「グレイテスト・ラブ・オブ・オール」もよいが、個人的に一番好きな曲は「そよ風の贈り物 」。ホイットニーの声の瑞々しさと表現力が最大限に味わえる曲であるうえ、曲自体の持つグルーヴ、そしてうねりが最高に気持ちよい。特にブリッジの部分はまさしくソウル!である。


プロデューサーと収録曲探しが難航し、
アルバム完成までに2年の月日がかかる



ニューヨークのナイトクラブでホイットニーのパフォーマンスを見たクライブ・デイビス。公の場ではクライブがホイットニーを発掘したことになっているが、実際彼女を発掘したのは当時アリスタのA & Rを務めていたジェリー・グリフィンである。

ジェリーはマンハッタンのスイートウォーターというクラブで、母親シシー・ヒューストンのショーでゲストとして2曲歌うホイットニーを目撃。翌日クライブに「凄いシンガーを見つけたんだ」に報告。クライブはジェリーの手配したホイットニーのショーケースに足を運んだが、あまり興味を持たず(ショーケース中も居眠りをしていた)」、当初シングル契約しか提示しなかった。

その後、クライブがホイットニーに興味を持ったのはエレクトラ・レコードがホイットニーと契約が近いらしい、という情報を手にしてからだ。最終的にホイットニーは最終的にアリスタ・レコードを選ぶ。いとこのディオンヌ・ワーウィック、母親が親しいアレサ・フランクリンがクライブと成功を収めた過去があるのもアリスタが選ばれた理由の一部だろう。

1983年、アリスタはホイットニーとレコード契約を結び、デビューアルバムの作業が開始される。

だが当初、ホイットニーのアルバム用の曲探しは難航。ライターやプロデューサーを集め、ニューヨークとロサンゼルスで凝ったショーケースが行われたにもかかわらず、多くのプロデューサーが彼女のプロデュースを辞退したのである。

超大御所プロデューサー、クインシー・ジョーンズもホイットニーの資質を見抜くことができず、当時プロデュースを断っている。のちに彼はこう語っている。

「後にも先にも、あれ(ホイットニーのプロデュースを引き受けなかったこと)
が一番の後悔だよ。」

ホイットニーをどういった歌手に育て上げ、どういった方向にプロモートするべきか、レーベル側は試行錯誤の連続だった。当時アリスタのA & R主任を務めていたジェリー・グリフィンによれば、納得のいくアルバムの収録曲が集まるまで、1年半かかったと言われている。

最終的にナラダ・マイケル・ウォルデン、マイケル・マッサー、ジャーメイン・ジャクソン、カシーフ等、複数のプロデューサーの参加と40万ドルという新人アーティストの予算としては破格の制作費が話題となった。

クライブ・デイビス率いるアリスタがホイットニーのデビューに際して周到なマーケティングを敷いたのはよく知られているが、日本でもホイットニーをマーケットに出すために、気合を入れてマーケティングを行っていたようだ。

ホイットニーの白い水着姿が印象的なジャケットは日本盤のみの仕様。そ当時のレコードの帯にはこんなキャッチフレーズが付いている。

「たまらなく素敵!輝く太陽のもと、
キュートな風の妖精からの爽やかな贈りもの。
セクシーに誘惑されたい。
From NY〜85年期待の大型シンガー」

今読むと完全に的外れなキャッチだけど、渾身の努力は伝わってきます。残念ながら彼女のキャラクターは伝わってきませんが。

しかもフロム・ニューヨークって...彼女、ニュージャージー出身なのに、
勝手に変えられちゃって。

アメリカ盤と日本盤(及びヨーロッパ盤)では曲順が異なっている。アメリカ盤は「そよ風の贈り物 」からスタートし、「Hold Me」が最後の曲となるが、日本盤では「恋は手さぐり」が一曲目となっている。

面白いことに日本盤を聴くと「これはポップ・アルバムだ」という印象を受け、
アメリカ盤を聴くと「これはR&Bのアルバムだ」と感じる。曲順も人の印象をここまで変えるものなんですね。


ホイットニーの声には
称賛が寄せられるが、
アルバムの方向性には疑問の声も


批評家達にもアルバム概ね好意的に受け入れられ、特に彼女のボーカルには称賛が寄せられた。だが収録曲のタイプやアルバムの方向性には批判的な意見もあげられた。ローリング・ストーン誌のDon Sheweyはこう批評している。

「こんなにエキサイティングな声を聴くのは本当に久しぶりだ。彼女は曲に対してずば抜けた解釈力を持っている。だが多くの曲は驚くほど特徴がなく、誰が歌っても構わないようなポップ・ソウルばかり。とてつもなく優れたデビュー・アルバムになる可能性があったのに、「次にご期待」と感じるのは、こうした曲が原因だ。」

またロサンゼルス・タイムズではこう評価されている。

「このアルバムは特徴のないアレンジと、退屈な選曲にもかかわらず、彼女がシンガーとして、とてつもないパワーと可能性を持っていることを示している」

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日本盤のジャケットはホイットニーの白い水着姿を使用。アメリカ盤やヨーロッパ盤のジャケットはサーモン・ピンクで、ホイットニー本人の短い髪とエキゾチックな装いの彼女の写真を使っている。

ロビン・クロフォードの著書「ア・ソング・フォー・ユー」によるとミーティングの際、レコード会社にアメリカ盤用のカバー写真は「ブラックすぎる」ため、
上役が採用に躊躇していると聞かされ、自分を否定されたかのように感じたホイットニーは帰路、車中でずっと泣いていたそうだ。

1985年10月28日、ニューヨークのカーネギー・ホールでホイットニーのコンサートが開かれる。(この日がホイットニーのカーネギー・デビュー)だが白人のプロモーターを使用したという理由で、黒人市民権運動リーダー アル・シャープトンと数人が「Whitey (この場合は白人かぶれの意)Houston」と書かれた看板を持ち、建物の前で彼女の音楽をボイコットするデモを起こしている。

ホイットニーは楽屋で「(彼らは)私に一体どうして欲しいの?何故これが私の責任なの?」と怒っていたそう。

白人をメイン・マーケットと捉えた音楽業界の中で、ホイットニーはその爆発的な成功が理由で、既に奇妙な立場に立たされていたのだ。

またその夜、兄ゲイリーはホイットニーのバックグラウンド・シンガーを務め、数曲デュエットも歌うことになっていたにもかかわらず、リハーサル中行方不明のままだった。その後本番間際に、誰の目にもハイとわかる状態で現れるゲイリー。あろうことかシシーはリハーサルも済ませていないゲイリーにステージに立つように命じたのである。

この瞬間についてロビン・クロフォードは著書で以下のように苦々しく語っている。

「ホイットニーの横に立って(その状況を)見ながら、あれは良くないな、と私は思った。ゲイリーはあんな状態でステージに立つべきではないのだ。

だがホイットニーは何も言わず、ただそこに立って、母親がゲイリーをステージに押し出すのを見つめていた。

そして当時シシーは娘がどう思うかより、ゲイリーにレコード契約を獲得させることの方が大事だったのだ。

人生の中で、小さいことに見えるかもしれないがこうしたことを無視すると、後で後悔することになる。これはそうした瞬間のひとつだった。

ホイットニーはゲイリーがハイなのを知っていた。母親がゲイリーにステージに上がるのを許す、それはハイな状態でステージに立っても構わない、とホイットニーに言ったのと同然のことなのだ。

ドラッグでハイになり、練習もせず、そのままステージに上がる。ゲイリーの為のステージでも、母親のステージでもない、そこは妹のホイットニーのステージにもかかわらず、である。

だがシシーは正しい対応を見せるのではなく、ただOKを出したのだ。そこには学ぶべき学習もモラルも、反省も何もなかった。」

参考:”A Song For You: My Life with Whitney Houston”
by Robyn Crawford


典:whitneyhouston.com