生まれたばかりのボビ・クリスの写真をタブロイド誌に売った人物とは?元ボディガードによる回想記『Protecting Whitney 』

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Text & Translation by HRS Happyman

2025年上旬、ホイットニー・ヒューストンの元ボディーガードのデイビッド・ロバーツが回想記『Protecting Whitney~ A Memoir of Her Bodyguard 』を出版した。

イギリス出身のデイビッドがホイットニーのボディガードを務めたのは1986年から1995年。ホイットニーのドラッグ問題をレポートとしてマネージメントに提出したためにクビになった人物である。ドキュメンタリー『CAN I BE ME』にも出演している。

この本では有名ストーカーや数々のツアーの裏話に加え、ホイットニーの両親の自分勝手さ、ドラッグの問題を解決しようとしない周囲の人間やレーベルの無責任さ、ロビン・クロフォードの的違いな愛情、夫ボビー・ブラウンのこれまで明かされなかった行動など様々なトピックが内部者の視点から語られている。またホイットニーの抱えた苦悩や声の問題についても章を割いて描かれている。

一種の告発書とも言える内容だが、その中に生まれた直後のボビー・クリスの写真がタブロイド誌に流失した際のエピソードがある。

当時を振り返ってみよう。1993年1月、映画「ボディーガード」とサントラが世界中で空前の大ヒットを記録する中、ホイットニーの妊娠は順調ではなかった。予定日は3月だったが、既に体がむくんで体重が急増。血圧も心配なレベルに上昇していた。特に足のむくみが進み、歩行が難しくなっていた。

そんな中1月の末にはホイットニーはベイおばさん、シルビア、そしてデビッドを連れバハマにバケーションに出ている。リラックスするのが目的だった。テレビ司会者マーブ・グリフィンの所有する美しいコテージで、白い砂浜と青い海はこの世のパラダイスと言えた。出産前にホイットニーはつかの間ながら(ロビンとボビーなしの)ゆっくりとした時を過ごすことができた。

2月のベイビーシャワーのお祝いを済ませ、3月が近づくにつれ一気に事態はシリアスになっていった。主治医はホイットニーの状態に懸念を抱えており、自然分娩ではなく帝王切開を行うことが決定された。

ホイットニーがニュージャージーのセイント・バルナバス病院に入院日に先んじてデビッドは向いのヒルトン・ホテルに陣を構えた。そしてホイットニーの入院に向けて準備を進めた。父親のジョンからは特に生まれたばかりの赤ん坊の写真が世間に流失することがないように強く言い渡されていた。

セキュリティに関してデイビッドの敷いたプランは徹底していた。自身のクルーに加え、他2社から警備会社からスタッフが雇われチームが編成された。

予定日がいよいよ近づき、ホイットニーはホイットニーは妊婦専用フロアの7階、プライベート・ルームに入院する。病室の前には24時間体制のセキュリテイが立ち、フロアにある全てのアクセスポイントにもガードが配置。階段やエレベーター付近も定期的にパトロールが回った。

主治医はデビッドとセキュリティ上の懸念を相談し、ホイットニーの帝王切開を平日の午前11時30分に行うことを決定。午前中の訪問者が落ち着き、人々がランチで心がそぞろになる時間帯を狙ってだった。

1993年3月4日遂にボビ・クリスティーナが誕生する。健康な女の子だった。シシーとベイおばさんが立ち会い、デビッドの記憶によるとボビーは誕生の瞬間に間に合わなかった。しばしの感激の後、傷口を縫い合わせたホイットニーは病室へ戻るためにストレッチャーに乗せられた。

その体は完全にシーツで隠され、赤ん坊のボビ・クリスの姿も完全に隠された状態である。その周りをスーツ姿のセキュリティ達が取り囲むように立ち、一行は慎重に廊下を進んでいく。すると廊下の向こう側でフラッシュが光った。

その数日後、ホイットニーが乗ったストレッチャーらしき写真がタブロイド誌の表紙を飾る。写真は完全にぼやけており、誰の写真なのかもわからない程だった。いい加減な推測や沢山の嘘を含んだ記事が一緒に出版された。

相変わらず警備体制は続いていたが、親類や親しい友人達がホイットニーの病室を訪ね始める。その数日後デイビッドは驚愕のニュースを聞かされる。

赤ん坊用ベッドに横たわるボビ・クリスの写真がタブロイド誌の表紙を飾っているというのだ。デビッドが敷いた警備体制を考えるとそれは不可能なはずだった。警備のプロとしては悪夢と呼ぶべき事態とだった。

ジョンとシシーは勿論この事態に激怒。まずは病院のスタッフが厳しい尋問を受ける羽目になった。病院のスタッフがポケットカメラを持ち歩くことは契約で固く禁じられており、これは携帯電話のカメラができるずっと以前の話だ。

だが流出した写真を見たデイビッドはこう思った。たとえ病室に居合わせたスタッフでもこんなにはっきりした写真を撮るのは不可能だ。間違いなく訪問者の一人による写真だった。デビッドには自己の利益のためにこうした卑劣な行為をする人間がクズとしか思えなかった。

実はデビッドは捜査エージェントとしての免許も持っており、このタブロイド誌の出版社に知り合いがいた。そして写真への支払いを受け取った人物は誰か、調べるよう依頼したのである。

しばらくすると連絡が入った。支払われた額面は1万ドル、小切手の裏側へのサインは『パット・ワトソン(パット・ヒューストンの旧姓)』だというのだ。

当時ホイットニーの兄、ゲイリーとデートしていたパット。この話がマネージメントからスタッフに漏れ伝わると兄マイケルの妻ドナ・ヒューストンは直接パットを問い詰めた。するとパットは自分の関与を否定した上に、目をカッと見開いてこう叫んだ。

「私の仕業なわけがないわ。だって私、カメラすら持っていないんですから」

この言葉を聞けば背後で起きていたことは想像がつく。おそらくパットは主犯者ではないのだろう。ゲイリーに使われたのだ。

それにしてもこの答えのアホさぶり。それなら何故、小切手にお前のサインがあるのか。誰が引き出したんだ。事情がどうあれ関与した証拠がある。それなのに否定し続ける図々しさ。普段はクリスチャン気取りでやたらとジーザスの名前を口に出すくせに。パットが見せた太々しさにドナは驚いた。

ここで事件は意外な展開を見せる。父親ジョンがプレジデントを務めるホイットニーのマネージメント会社、ニッピー・インクはこの事件の真実を追求するのを突然放棄したのである。そしてこの背後には母親のシシーの存在があった。


シシーには自分の子供達に対して向けられた疑いはなんであれ、一才認めない頑固さがあった。自分の子供が何をしただって?とんでもない!そのために誰の目にも歴然とした推察は語られることなく、事件は未処理で闇に葬られた。シシーの激怒を避けるためだった。周囲のご都合主義のもと犯人はこうして責任を逃れ、事態は何も変わらなかった。

デイビッドはこの出来事についてこう結んでいる。

「この一件を通じてあらためて感じた。ホイットニーは外部者よりも先に自分の周囲の人間のことを警戒しなければならなかった。皮肉なことにパットは後にホイットニーの兄ゲイリーと結婚し、ホイットニーの遺産団体の代表として今日までホイットニーから搾取し続けている。

参考:David Roberts ”Protecting Whitney ~ A Memoir of Her Bodyguard” 

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