ヒューストン家公認ドキュメンタリー「ホイットニー」について

アメリカのポップ・ミュージック史上燦然と輝くホイットニー・ヒューストンの素顔に迫るドキュメンタリー映画。ヒューストン家公認作品で、2019年のアカデミー賞のドキュメンタリー部門にもノミネートされた。
監督はボブ・マーリーの傑作ドキュメンタリーで知られるKevin Mcdonald。ホイットニーが親しかったミュージシャン、シーシー・ワイナンズやキム・バレルを含め、30人以上インタビューを敢行したが、表面的なコメントが多かったため、殆どのインタビューは映画に採用されなかった(カットしたインタビューを是非エクストラとしてDVDに含めて欲しかった)実はマクドナルドはホイットニーの音楽のファンではなく、監督として打診された時には関与に興味がなかったそう。
だが、ホイットニーのフィルム・エージェント、ニコール・デイビッドの「私はホイットニーを25年間知っていたのだけど、それでも私には彼女のことがわからなかった」という言葉を聞き、ホイットニーの持つ多面性に興味が湧いたのだとか。
先行して公開されたドキュメンタリー、「Whitney – Can I Be Me?」 ではホイットニーの1999年のツアーの映像に加え、バイセクシャルの可能性、デビュー当時のレコード会社のスタッフのインタビュー、音楽業界に「作り上げられたスター」として経験したバッシングや苦悩を浮き彫りにする一方、この「Whitney」ではヒューストン一家の、これまで語られなかった家族の秘密に光が当てられる。
公の場では完璧な家族を演じ続けたヒューストン一家。そのイメージの裏で、父親のジョンはホイットニーの銀行口座から巨額の金を盗み続け、母親シシーは自らが音楽ディレクターを務める教会の牧師と関係を持った過去があった。また彼女の兄二人はどちらも麻薬中毒者だった。
ホイットニーにとって唯一信頼出来る存在だった、アシスタントのロビン・クロフォードはホイットニーと決別するまで、ホイットニーの家族やボビー・ブラウンに常に嫌がらせを受けていた。映画の後半でホイットニーは幼少の時に従姉妹でR & B シンガーのディー・ディー・ワーウィックに性的な虐待を受けていたことが語られる。
「Whitney」と「Whitney – Can I Be Me?」、どちらのドキュメンタリーも異なった視点で製作されているので、両方のドキュメンタリーを観ることをお勧めする。コンテンツを考えると、「Whitney」を見る前に、「Can I Be Me」を観ておいた方が、さらに楽しめる。
個人的なハイライト。一つは第15回スーパーボウルでの「星条旗よ永遠なれ」斉唱の裏話。ホイットニーがオーケストラのプレイバックを1回半聞いただけでブース入り、一発でボーカル録り終えるまでの様子をバンド・リーダーのリッキー・マイナーが興奮交じりで語る。
2つ目は1997年の東京ドームのコンサートでのホイットニーが「I Love The Lord」を歌うシーン(絶唱)。「Whachulookingat?」のビデオ撮影現場でボビーと超ハイになっているシーンも、ハイライトとは呼べないが脳裏から離れない。
ヒューストン家の公式認可されたドキュメンタリーに加え、ホイットニーの人物像に迫るため綿密な調査をした上での作品、という触れ込みであるが、長年のファンは首を傾げざるを得ない箇所もいくつか。
ー時間軸を無視した構成
本作ではホイットニーの人生を年代別に追っていくが、時々、出来事の時間軸を大きく逸脱した箇所が見つかる。例えばホイットニーがボビ・クリスを産んだものの、子育てを十分にせず、ボビ・クリスが感じた孤独にフォーカスした箇所がある。ボビ・クリスが顔を手で覆う写真がクローズアップになり、彼女の孤独が浮き彫りになったと思ったら一転、映画はスーパーボウルの国歌斉唱のエピソードにいきなり飛ぶ。これ一体何で??なぜボビ・クリス出産の後にスーパーボウル??
これってドキュメンタリーの流れを妨げてるよね?あとホイットニーがガリガリに痩せていたマイケル・ジャクソンのキャリア30周年記念コンサートでのエピソードも何故か「Just Whitney」のリリースの話のあとに回されているね。これも何故なのかな。これも構成上必須、といった理由が見つかりません。
また、ホイットニーがニュージャージーからジョージア州のアトランタへ引っ越すシーンも、実際の時間の流れから見ると不自然なところに配置されている。ファンから見ると時間軸が全般にグチャグチャですね。
ーボビ・クリスとホイットニー、親子関係の描かれ方に疑問
映画中に描かれたボビ・クリスとホイットニーの関係は、ボビが一方的な被害者として描かれており、ホイットニーとの間にあった絆について触れられていない。
特にパット・ヒューストンのコメントは不自然で「ボビ・クリスは自分自身の人生を憎み、母親を誰にも見つからずに殺す方法はないか、と書き残すほど憎んでいた」と二人の関係について言い結んでいる。なぜ制作に関わるパットが二人の関係をこう言い結んでいるか私には不明だ。
「I LOOK TO YOU」リリース後にホイットニーが出演したオプラ・ウインフリー・ショウではボビ・クリスはホイットニーについて「ママについてどれだけ誇らしく思うか、正直なところ言葉が見つからないくらいよ。私達、一緒に戦い抜いたから」と温かい眼差しでコメントしている。他にも様々なところでボビ・クリスは母親への賞賛と愛情を口にしており、そのビデオはたくさん残っている。
ヒューストン家がLifetimeネットワークで制作したドキュメンタリー「The Houston Honoring Whitney」でボビがどれだけ母親のことを愛していたか、真剣な顔で話しているだろ。因みにホイットニーのボビへの愛情を疑う人はこちらのビデオを観てください。
勿論ボビ・クリスも当時はティーンエイジャー、母娘の間には色々な衝突があったに違いない。だが夫ボビーが去った後、最後のツアー中に、二人の間にあった絆や愛情の通い合いに触れていない。もし二人の関係を忠実に伝える意図があるなら、二人の間にあった愛情にも焦点を当てるべきだったと思う。
またベイおばさんも、映画の中で、「ホイットニーが生後3ヶ月のボビを彼女に預けたまま、何処かへ行ってしまったの、その後ボビは私と一緒に7年寝たのよ的な中途半端な説明をして、エ〜ンと泣き始める。これも非常に誤解を招きやすい箇所だ。
説明なく泣かれると、まるでホイットニーがそのままドラッグパーティーに行って帰らなかったように聞こえてしまうではないか。ホイットニーはボビを出産して4ヶ月後にはツアーに出ているのだ。産後間もなくツアープロダクション、リハーサル、インタビュー等、ホイットニーの目の前には「責任」と「仕事」が常に突きつけられていたはずなのだ。
初めての子供を育てる時間もロクに与えられないまま、ホイットニーは父親ジョンが「すでに契約を済ました」したツアーに出る義務があった。責めるべきはジョンのマネージメントだろう。この映画では仕事がホイットニーをボビから遠ざけていた一因であることをきちんと説明するべきだったと思う。
ーホームビデオの映像が不適切に挿入される
アシスタントのメアリ-・ジョーンズがホイットニーが死ぬ数日前に周りに漏らした「私もしっかりしなくっちゃ、イエス・キリストに会うんだから」という謎めいた言葉について語った後、シーンはエレベーター内で撮影されたホームビデオに切り替わる。
1990年〜1991年当初に撮影されたと思われるそのビデオの中で、ツアーのことを話しているのだろうか、ホイットニーが静かに「終わりが近づいてきた」と歌いながら口にする。
確かに雰囲気は一致しているけど、話している事柄が違うのにここにインサートするの?それも彼女の死と関連した箇所に?たまたま内容がかぶるから?そういうところも長年のファンには「ご都合主義的」に見えてしまう点だ。
これが家族の公認ドキュメンタリーだが、観て返って謎が増えた部分もある。この作品がホイットニーの人生の複雑さを描ききったと思えない。特に娘のボビ・クリスティナとの関係が短く、一方的に語られている点は不満だ。ボビ・クリスティナが母親ホイットニーについて話したインタビューは沢山あるのに、その引用がないのも不自然。
加えて、素顔のホイットニーを知るロビン・クロフォードも参加していない為、作品に決定的な説得力がない。
そもそもホイットニーの家族そのものに問題があるのに、彼らがドキュメンタリー制作に関わってストレートなものができるわけがない。家族公認の作品なのに、残念ながら家族の恥と無責任さを晒す結果になった、というのが正直な感想だ。
と、長年のファンである私は厳しい目をこのドキュメンタリーに向けるが、ホイットニーについてあまり知らない人は、『これが話の全てだとは思わずに』、まずは観てみることをお勧めする。彼女の持つ類稀な才能と功績、そしてその複雑な人生の一部を理解するきっかけには良いと言える。