母シシー・ヒューストンが、ホイットニーの死後1年を経て出版した「Remembering Whitney」の内容とは。

912月 - による HRS Happyman - 0 - 記事・インタビュー日本語訳
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remembering Whitney

ホイットニーの母、シシーが死後1年目に出版されたこの本。ホイットニーが生まれた日の思い出から、死の連絡を受けた瞬間まで、ホイットニーの人生と二人の関係がシシーの視点から語られた、読み応えのある一冊である。

ホイットニーとシシーの関係は複雑で、二人の間にあった溝について指摘する内部者は多い。ホイットニーが生まれの地ニュージャージーを離れ、アトランタに移ったのも母親との関係が理由のひとつと言われる。

この本でも幼少期の様子や歌手としてトレーニング中の裏話など、興味深い箇所も多いが、大切な局面でシシーはホイットニーの抱える重荷を理解していなかった印象だ。そのためこの本を読むと、ホイットニーの人生が余計に憂鬱なものに見えてしまうかもしれない。

そんな時にはロビン・クロフォードの本 『A Song For You』を是非手にとって欲しい。同ロビンは同じ出来事について、全く異なった説明を加えており、多くの場合、シシーを含む家族やボビーがホイットニーの足を引っ張り、成功を妨げてきたことを告発している。

シシーの著書「Remembering Whitney」について、ABC newsの記事日本語訳。

Abcnews.com 
Cissy Houston’s Top 7 Revelations about Whitney Houston
LUCHINA FISHER
Translation by HRS Happyman

https://abcnews.go.com/Entertainment/cissy-houstons-top-revelations-whitney-houston/story?id=18356291


シシー・ヒューストンは娘ホイットニーのドラッグ依存について、ボビー・ブラウンを責めるつもりはない。ホイットニーは依存が原因で、48歳の若さで亡くなったにもかかわらず、である。今回出版される本の中で、シシーはボビーについて更に語っている。彼女の著作「Remembering Whitney: My Story of Love, Loss and the Night the Music Stopped」はホイットニーの死からちょうど一周年のタイミングで出版される予定だ。

2012年2月11日、ホイットニー・ヒューストンはカリフォルニア州ビバリーヒルズのホテルのバスタブで溺死した。関係当局はコカインの使用と心臓病も彼女の死に関係していると発表している。

シシー・ヒューストンはエルビス・プレスリーやアレサ・フランクリンのような錚々たるメンツとステージに立ってきたベテランのソウル/ゴスペル歌手。彼女はこの本でためらうことなく全てを語っている。「ホイットニーについての噂や世間で出回っている話を聞いているうちに、私は本当の彼女がどんな人間だったのか、人々に知ってもらいたいと思った」と彼女は綴っている。

シシーは娘のホイットニーについてこう語っている。

「そりゃあ態度が良くない時もあったけれど、あの子は誰よりスイートで、愛情溢れる子だった。」だがホイットニーは秘密を隠す、とりわけドラッグ使用について隠すのがとても上手だった。そしてシシーは自分がいったいどれだけ娘のことを理解していたのか判らないという。

シシーの本に描かれている7つの驚きの新事実をここに挙げる。

1:ホイットニーの死をどのように知ったか

シシー・ヒューストンは2012年のグラミーの前夜に娘の死を知る。彼女は家に一人でいた。彼女の部屋のドアベルが何度も鳴るのだが、外には誰も居ない。訝しがっていると間もなく長男のゲイリーから気が触れたかのような電話が入る。

『ニッピーが!部屋で見つかったんだ!もう俺は戻れないんだ!』
一体ホイットニーに何が起きたのか繰り返し尋ねるシシー。
『ゲイリー、もしかしてあの子は死んだの?』ついにゲイリーは答えた。
『そうなんだ、ママ。(ホイットニーは)死んだんだ。』
その瞬間、私の世界は完全に粉々に砕かれた。」

シシーは部屋のドアベルが何度もなったことに慰めを感じている。グラミー賞の式典が済んだら、ホイットニーはシシーに会いに来ることになっていた。彼女は娘が会いに来る約束を守ったのだ、と信じている。「なんとか残された方法で、あの子は約束した通り私に会いに来てくれた」

2:ドラッグをホイットニーに教えたのはボビー・ブラウンではなく兄のマイケル

シシー・ヒューストンはボビー・ブラウンがホイットニーの夫であることに不満であったが、ドラッグのことや彼女の死について彼を責めるつもりはない。「だが同時に彼女を救うための努力をしていたようにも見えない。ドラッグに関してボビーとホイットニーの考えはいつも食い違っており、それが更にドラッグから抜け出すのを難しくさせていた」

シシーは二人が付き合いだした頃からボビーのことが気に入らなかった。彼は幼稚で、気性が激しく、自分の妻の成功に嫉妬しているのだ、と感じていた。

シシー・ヒューストンの2番目の息子、マイケルもドラッグの問題で苦しんでいたが、オプラ・ウィンフリーに、まだ80年代で、初めてホイットニーにコカインを教えたのは自分で、ホイットニーがボビーと出会うずっと前のことだと告白している。

「こんなことになって責任を感じているよ。俺たちはいつも一緒にいて、ニッピーはいつも俺の後をついて回ってた。彼女に車の運転も教えたし、一緒にも遊んだし、子供のことはなんだって一緒にするだろう?」彼は更にこう加える。「ドラッグをするときも、一緒だった。それが次第に手に負えなくなっていった。これはヤバいと気づいたときには遅いんだ。」

3:初めてホイットニーとドラッグ使用について面と向かって話した日

シシーがある時、ニュージャージーにあるホイットニーの家を前触れなしで訪れたことがある。そこで彼女は予想外のショッキングな経験をするはめになった。

「ホイットニーがドアを開けたとき」シシーはこう書いている。「私は彼女を見て衝撃を受けた。彼女は完全にハイだった。こんな彼女を私はいままで見たことがなかった。彼女の目はギラギラと光っていて、普段の彼女と全く違っていた。『ニッピー、お前は一体全体何をしているの?』

母親の心配をホイットニーははねのけようとした。「そんなに何もかも心配しなくて大丈夫。私は中毒者じゃないわ。大人の女よ」

2000年、ホイットニーがバート・バカラックが、ホイットニーをオスカー授賞式のパフォーマーからクビにした後のことだ。シシーがホイットニーにドラッグを断たせようと試みたことがある。娘は母親に一緒に住んで欲しい、そうしたら私もきっとやめられるとシシーを説得。シシーは同意したものの、間もなくコントロールを失ってしまう。

「ニッピーはどこかに閉じこもったまま出てこない。顔を見せればああだのこうだの言い訳を言って、自分はドラッグはしていないと誓っていた。私にそれが本当だと信じさせるために、ずいぶん長い間部屋に長い間引きこもっていた。」また、シシーにはどうやったらホイットニーにドラッグの使用をやめさせられるか見当もつかなかった。

ついに2005年の初頭に最悪の状況がやってくる。シシーはホイットニーとボビーが引っ越したジョージアのアトランタにある彼らの家を訪れ、世にも恐ろしい光景を目にする。ギラギラと光る目や、奇妙な顔などがスプレーであちこちの壁やドアに描かれていたのだ。フレームに入れられた家族のポートレート写真からホイットニーの顔が切り抜かれている。それをみてシシーは「言葉で表せないほどゾッとした」。

シシーはその場を離れ、裁判所の命令書と二人の保安官と共にホイットニーの家へ戻り、彼らがホイットニーを病院へ連行する手筈を整える。ホイットニーは1週間そこで過ごし、その後アンティグアにある施設でリハビリ・プログラムを4週間に渡って受けることになる。

「あの子は私にすごく腹を立てていて、私に向かってそれは汚い言葉を吐いた。次第に、随分時間が経ってから、やっと彼女の怒りは収まった。全てはあの子を守るためにやったことなんだ、と理解したのね。その後『ママが私を救ってくれた』と人に話していた。」

ロビン・クロフォードについて

シシーはホイットニーが高校時代に出会い、後に彼女のパーソナル・アシスタントとなったロビン・クロフォードとホイットニーの関係についても触れている。ホイットニーは18歳の時に家を出てロビンと一緒に同棲をしていた。

「長い間、ニッピーとロビンの関係について随分な憶測がなされていたのは、私も知っているのだけれど」とシシーは語る。「正直な話、私にもあの二人の間に何が起きていたのかわからない。出会った頃も、その後も。ニッピーとロビンはお互いのことを心から思いやっていたのは確かだわ。ニッピーはロビンの自立したところに惹かれていたのかもしれない。

ホイットニーは長い間、ロビンとは友達以上の関係ではない、と強調してきた。ホイットニーは1993年にローリング・ストーン誌にこう語っている。

「もし私に女の友達がいたら、その友達と私はレズビアンの関係にある、って話になるの?デタラメもいいところだわ。何度もなんども否定しているのに、誰も認めてくれないわ。それともメディアが認めない、ってことかしら? 」

シシーはロビンのことを好きではないが、シシーはホイットニーのドラッグ問題について、最初に連絡をくれたのがロビンだったことに感謝している。

アレサ・フランクリンはホイットニーのゴッド・マザー(実親でなくスピリットの上での母親)ではなかった?

一般にはアレサ・フランクリンはホイットニーのゴッド・マザーであると信じられているが、この話はシシーがアレサとツアー中、アレサがニュージャージーのヒューストン家に立ち寄った際のことが由来になっている。

「ニッピーはとにかくアレサに感銘を受けて、それからというもの周りの友達に自分のゴッド・マザーは言い触らし始めた。アレサも特にそれを否定しなかったし、その後話が定着したの。レポーターたちもその話を取り上げて、人々はそれが本当のことだと思ったんでしょう。ニッピーもその話を人に話すのをやめなかったし」とシシーは綴っている。

ホイットニーの声に一体何が起きたのか?

2010年の「I Look To You」のツアーの頃、ホイットニーはコーチと共にボーカルを強化に励み、声の回復のためにステロイドを摂取。それでも声のコンディションに深刻に悩まされていた。またステロイドの摂取は、彼女の体重の増加をもたらした。

「ニッピーは(ツアー時)46歳だった。30年間も歌っていると、誰の声でも、どんなにベストの環境に身を置いていたとしても、声が変わらずパワフル、ということは有りえないわ。そこへもってして、ホイットニーの環境はとてもベストとは言い難いものだった。」とシシーは続ける。

「沢山のコンサートから過酷さにあの子の声は耐えられなかったんだろう。でもチケットは完売し、契約が交わされた以上、彼女はとにかくステージに立って歌った」

ファンや批評家たちからの非難や苦言は「間違いなくあの子の心を動揺させた」とシシーは書く。「私にはそれが正確にいつからなのかわからないが、明らかにあの子はまたドラッグを使い始めていた。」

唯一の娘であるホイットニーが生まれた日に、頭の中の「囁き」がシシーにこう告げている。

『この子は私と長く一緒にいることはない』。今まで忘れていたけれど、それが本当のことになった、2月のあの日に」

シシーは未だに時々、自分の娘がどこにいるのかわからず、彼女を探して泣きながら目を覚ますことがある。

「ベッドを出て、目をこすって、顔を洗って、またベッドに戻る。それしか私にはできない。」と彼女は書いている。「娘と過ごせた48年間という贈り物を私に授けてくれた神に感謝しています。神はいつ、あの子を連れて行くべきかをご存知だった。私は(神の判断)を受け入れます。」

Abcnews.com
Cissy Houston’s Top 7 Revelations about Whitney Houston

https://abcnews.go.com/Entertainment/cissy-houstons-top-revelations-whitney-houston/story?id=18356291

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