母シシー・ヒューストンが、ホイットニーの死後1年を経て出版した「Remembering Whitney」と語られないストーリー
ホイットニーの母、シシーが死後1年目に出版されたこの本。ホイットニーが生まれた日の思い出から、死の連絡を受けた瞬間まで、ホイットニーの人生と二人の関係がシシーの視点から語られた一冊である。
音楽的に最も影響を与えた人間として、母親について敬意を持って、好意的に語るホイットニーの印象は強い。だが 二人の関係は複雑で、間にあった溝を指摘する声は多い。2000年後、ホイットニーが生まれ育ったニュージャージーを離れ、アトランタに移ったのも母親と距離を置くのが理由のひとつだったと言われる。
ホイットニーの幼少期の様子や歌手としてトレーニング中の裏話など、興味深い箇所も多いが、この本からホイットニーの真実の全ては伝わってこない。ホイットニーの傷がどこから来たのか、そしてその深さをシシーは把握していない。そして都合の悪い事実の言明は一切避けている。その為この本を読むとホイットニーの人生がさらに憂鬱なものに見える。
一つの例がこれである。この著書の中でシシーは16歳のホイットニーが実家を出て、親友のロビン・クロフォードと一緒に住むことを決心した時のことを書いている。当時、別居中の夫のジョン、兄二人は既に家を出ていたため、広い家にホイットニーとシシーだけが住んでいた。そんな中、ホイットニーまで家を出る、と言いだしたのだ。
『夫のジョンが家を出て間も無く、ニッピー(ホイットニーのあだ名)が家を出ることを決意した。私は心が痛んだ。夫が去り、息子二人が家を出て、そして今最後の子供、私の愛する可愛い娘が、家を出て行くという。なんとか思いとどまらせようと、私は彼女を後ろめたい気持ちにさせるため、ひどいことを言ったりしたが、ホイットニーの決心は変わらなかった。彼女がロビンと暮らしている間、私は一度も彼女達のアパートを訪れることはなかった』
これを読めば人々はシシーに同情するだろう。だが背後で起きていた事情はこうだ。シシーは当時、自らが音楽監督を務めるニューホープ・バプティスト教会の牧師と情事を持っていた。牧師には家族がおり、ホイットニーはその全員を知っていた。彼はホイットニーらの家で下着姿でキッチンやリビングをウロウロしていることがあった。シシーは夫ジョンと別居していたもののまだ離婚はしていなかった。
またある時、シシーは娘を、教会の牧師とその息子とのダブルデートに誘った。若い二人を同伴させることで、人々の目を自分達の関係から逸らすことが目的だった。それに感づいていたホイットニーは勿論嫌がった。だが、シシーは『いい娘は親の言いつけに従うものだ』と言い渡し、ホイットニーは嫌々付き合わされた。
16歳のホイットニーは母親と牧師の関係や、家の中で起きていることに激しい嫌悪感を感じていた。この男が日曜日の礼拝では牧師として人々の前に立ち、キリストや正しい行いについて語る。一方シシーは自分をレディ・オブ・ゴッドと呼んでいた。神に使える女性?なんという偽善だ。そして教会の信者達は二人の関係に気づいており、裏で噂をしていた。
この頃、ホイットニーは親しい友人に『(教会は)嘘と偽善者ばかり。本当に嫌になったわ』と打ち明けている。残念なことにその中には母親と牧師も含まれていた。だがこの頃、ホイットニーは大切な発見もした。それは神様は必ずしも教会にいるわけではない。自分の心の中にいれば良いものだ、と言うことだった。教会ではなく、自分の中の神様に相談すればいい。その考えはホイットニーに力を与えた。
これまで相談相手だった兄のマイケルも、もうこの家にはいない。母親のことは愛していたが、感受性の強く、父親っ子のホイットニーにこの状況はあまりに辛かった。母親と住み続けることに耐えられなくなった。それがホイットニーが家を出た1番の理由である。それなのにシシーは『家を出て行く娘のことを責めた』のだ。この文章を読む限り、ホイットニーが何故、家を出なければならなかったのかいまだにピンときていない風。それにも正直倒れます。
ホイットニーは兄二人のことも愛していたが、彼らの頼りなさには失望していた。兄のマイケルはいつもストリートに出ていて、何をしているかわからない。ゲイリーは麻薬依存から抜け出せず周囲を心配させている。これに加えて、今は教会の牧師がこの有様だ。周りの男達はとことんホイットニーを幻滅させていた。
そんな中、元々バイセクシャルといわれるホイットニーがこの頃男性ではなく、自立して頼り甲斐のある同性のロビン・クロフォードに惹かれたのはむしろ極めて自然なことと言えた。またこの頃からホイットニーはドラッグを定期的に使用し始める。繊細なホイットニーにとってドラッグは逃避手段のひとつとなりつつあった。
ホイットニーが家を出た日のことである。車の中にホイットニーとロビンがものを詰め込む間、シシーは姿を見せなかった。いざホイットニーが車に乗り込んだ時、バスローブに身を包み頭にはカーラーを巻いたシシーがポーチに現れた。手にはビニール袋を持っている。
そして頭上でビニール袋を振りながらシシーは怒鳴った。『(生理用)ナプキン忘れるんじゃないよ!』車は止まらず走り出した。ロビンはホイットニーの頬を涙が伝っているのに気がついた。
人々はホイットニーのドラッグへの依存を責めながら、なぜ彼女が麻薬に逃げ込まなければならなかったか、その理由を知らない。ホイットニーは数えきれないほどの問題を抱えていたが、決して語ることを選ばなかった。
この本の前半でシシー・ヒューストンのこれまでの人生が語られている。幼い頃に母親を亡くし、父親や兄弟姉妹に叩き上げられ、音楽業界でもさまざまな苦難を戦い抜いてきたタフな女性、それがシシーだ。特に前半で彼女が語る壮絶な幼少期には心が痛む。
そうした経験は彼女をタフにしたが、それがホイットニーの繊細さを理解できない理由だった。シシーは勿論ホイットニーを愛していたが、ホイットニーにはもっと繊細な理解と抱擁が必要だった。そんな繊細さを持ち合わせなかったシシーは最後まで娘が理解できなかった。そしてそれはこの本に明らかである。それはむしろ人間の周波数の違いと言えた。
それではシシー・ヒューストンの著書「Remembering Whitney」について書かれたABC newsの記事日本語訳をどうぞ。
Abcnews.com
Cissy Houston’s Top 7 Revelations about Whitney Houston
LUCHINA FISHER
Translation by HRS Happyman
ホイットニー・ヒューストンは麻薬への依存が原因で48歳という若さで亡くなったが、母親のシシーは娘の依存をボビー・ブラウンのせいにするつもりはない。今回出版される本の中でシシーはボビーについて更に語っている。彼女の著作「Remembering Whitney: My Story of Love, Loss and the Night the Music Stopped」はホイットニーの死からちょうど一周年のタイミングで出版される予定だ。
2012年2月11日、ホイットニー・ヒューストンはカリフォルニア州ビバリーヒルズのホテルのバスタブで溺死した。関係当局はコカインの使用と心臓病もその死に関係していると発表。
シシー・ヒューストンはエルビス・プレスリーやアレサ・フランクリンのような錚々たるメンツとステージに立ってきたベテランのソウル/ゴスペル歌手だ。この本でためらうことなく全てを語っている。「ホイットニーについての噂や世間で出回っている話を聞いているうちに、私は本当の彼女がどんな人間だったのか、人々に知ってもらいたいと思った」とシシーは綴っている。
「そりゃあ態度が良くない時もあったけれど、あの子(ホイットニー)は誰よりスイートで、愛情溢れる子だった。」しかしホイットニーは秘密を隠す、特にドラッグ使用について隠すのがとても上手だった。そしてシシーは自分がいったいどれだけ娘のことを理解していたのか判らないという。
シシーの本に描かれている7つの驚きの新事実をここに挙げる。
1:ホイットニーの死をどのように知ったか
シシー・ヒューストンは2012年のグラミーの前夜に娘の死を知る。彼女は家に一人でいた。彼女の部屋のドアベルが何度も鳴るのだが、外には誰も居ない。訝しがっていると間もなく長男のゲイリーから気が触れたかのような電話が入る。
『ニッピーが!ニッピーが!部屋で見つかったんだ!もう戻れないんだ!』一体ホイットニーに何が起きたのか繰り返し尋ねるシシー。『ゲイリー、もしかしてあの子は死んだの?』ついにゲイリーは答えた。
『そうなんだ、ママ。(ホイットニーは)死んだんだ。』その瞬間、私の世界は完全に粉々に砕かれた。」
シシーは部屋のドアベルが何度もなったことに慰めを感じている。グラミー賞の式典が済んだら、ホイットニーはシシーに会いに来ることになっていた。娘が会いに来る約束を守ったのだと信じている。「なんとか残された方法で、あの子は約束した通り私に会いに来てくれた」
2:ドラッグをホイットニーに教えたのはボビー・ブラウンではなく兄のマイケル
シシー・ヒューストンはボビー・ブラウンがホイットニーの夫であることに不満であったが、ドラッグのことや彼女の死について彼を責めるつもりはない。「だが同時に彼女を救うための努力をしていたようにも見えない。ドラッグに関してボビーとホイットニーの考えはいつも違っており、それが更に二人がドラッグから抜け出すのを難しくさせていた」
付き合いだした頃からシシーはボビーのことが気に入らなかった。幼稚で気性が激しく、自分の妻の成功に嫉妬しているのだ、と感じていた。
シシー・ヒューストンの2番目の息子、マイケルもドラッグの問題で苦しんでいた。オプラ・ウィンフリーのインタビューで80年代にホイットニーにコカインを教えたのは自分で、ボビーと出会うずっと前のことだと告白している。
「責任を感じているよ。俺たちはいつも一緒にいて、ニッピーはいつも俺の後をついて回ってた。彼女に車の運転も教えたし、一緒にも遊んだし、子供の頃はなんだって一緒にするだろう?」彼は更にこう加える。「ドラッグをするときも、一緒だった。それが次第に手に負えなくなっていった。これはヤバいと気づいたときには遅いんだ。」
3:初めてホイットニーとドラッグ使用について面と向かって話した日
シシーがある時、ニュージャージーにあるホイットニーの家を前触れなしで訪れたことがある。そこで彼女は予想外のショッキングな経験をするはめになった。
「ホイットニーがドアを開けたとき」シシーはこう書いている。「私は彼女を見て衝撃を受けた。彼女は完全にハイだった。こんな彼女を私はいままで見たことがなかった。彼女の目はギラギラと光っていて、普段の彼女と全く違っていた。『ニッピー、お前は一体全体何をしているの?』
母親の心配をホイットニーははねのけた。「そんなに心配しなくて大丈夫。私は中毒者じゃないわ。大人の女よ」
2000年、アカデミー賞のリハーサル中にバート・バカラックがホイットニーをクビにした後のことだ。シシーがホイットニーにドラッグを断たせようと試みたことがある。娘は母親に一緒に住んで欲しい、そうしたら私もきっとやめられるとシシーを説得。シシーは同意したものの、間もなくコントロールを失ってしまう。
「ニッピーはどこかに閉じこもったまま出てこない。顔を見せればああだのこうだの言い訳を言って、自分はドラッグはしていないと誓っていた。私にそれが本当だと信じさせるために、ずいぶん長い間部屋に長い間引きこもっていた。」また、シシーにはどうすればホイットニーにドラッグの使用をやめさせられるか見当もついていなかった。
ついに2005年の初頭に最悪の状況がやってくる。シシーはホイットニーが引っ越したジョージア州のアトランタにある彼らの家を訪れ、世にも恐ろしい光景を目にする。ギラギラと光る目や、奇妙な顔などがスプレーであちこちの壁やドアに描かれていたのだ。フレームに入れられた家族のポートレート写真からホイットニーの顔が切り抜かれている。それをみてシシーは「言葉で表せないほどゾッとした」。
シシーはその場を離れ、裁判所の命令書と二人の保安官と共にホイットニーの家へ戻り、彼らがホイットニーを病院へ連行する手筈を整える。ホイットニーは1週間そこで過ごし、その後アンティグアにある施設でリハビリ・プログラムを4週間に渡って受けることになる。
「あの子は私にすごく腹を立てていて、私に向かってそれは汚い言葉を吐いた。次第に、随分時間が経ってから、やっと彼女の怒りは収まった。全てはあの子を守るためにやったことなんだ、と理解したのね。その後『ママが私を救ってくれた』と人に話していた。」
4:ロビン・クロフォードについて
ホイットニーが高校時代に出会い、後に彼女のパーソナル・アシスタントとなったロビン・クロフォードとホイットニーの関係についてもシシーは触れている。ホイットニーは18歳の時に家を出てロビンと一緒に同棲をしていた。
「長い間、ニッピーとロビンの関係について随分な憶測がなされていたのは、私も知っているのだけれど」とシシーは語る。「正直な話、私にもあの二人の間に何が起きていたのかわからない。出会った頃も、その後も。ニッピーとロビンはお互いのことを心から思いやっていたのは確かだわ。ニッピーはロビンの自立したところに惹かれていたのかもしれない。」
ホイットニーは長い間、ロビンとは友達以上の関係ではないと強調してきた。ホイットニーは1993年にローリング・ストーン誌にこう語っている。
「もし私に女の友達がいたら、その友達と私はレズビアンの関係にある、ってことになるの?デタラメもいいところだわ。何度もなんども否定しているのに誰も認めてくれない。それともメディアが認めたくない、ってことかしら? 」
シシーはロビンのことを好きではないが、シシーはホイットニーのドラッグ問題について最初に連絡をくれたロビンに感謝している。
アレサ・フランクリンはホイットニーのゴッド・マザー(実親でなくスピリットの上での母親)ではなかった?
一般にはアレサ・フランクリンはホイットニーのゴッド・マザーであると信じられているが、この話はシシーがアレサとツアー中、アレサがニュージャージーのヒューストン家に立ち寄った際のことが由来になっている。
「ニッピーはとにかくアレサに感銘を受けて、それからというもの周りの友達に自分のゴッド・マザーは言い触らし始めた。アレサも特にそれを否定しなかったし、その後話が定着したの。レポーターたちもその話を取り上げて、人々はそれが本当のことだと思ったんでしょう。ニッピーもその話を人に話すのをやめなかったし」とシシーは綴っている。
5:ホイットニーの声に一体何が起きたのか?
2010年の「I Look To You」のツアーの際、ホイットニーはコーチと共にボーカルを強化に励み、声の回復のためにステロイドを摂取。それでも声のコンディションに深刻に悩まされていた。またステロイドの摂取は、彼女の体重の増加をもたらした。
「ニッピーは(ツアー時)46歳だった。30年間も歌っていると、誰の声でも、どんなにベストの環境に身を置いていたとしても、声が変わらずパワフル、ということは有りえないわ。そこへもってして、ホイットニーのこれまで環境はとてもベストとは言い難いものだった。」とシシーは続ける。
「沢山のコンサートから過酷さにあの子の声は耐えられなかったんだろう。でもチケットが完売し、契約が交わされた以上、彼女はとにかくステージに立って歌った」
ファンや批評家たちからの非難や苦言は「間違いなくあの子の心を動揺させた」とシシーは書く。「私にはそれが正確にいつからなのかわからないが、明らかにあの子はまたドラッグを使い始めていた。」
唯一の娘であるホイットニーが生まれた日に、頭の中の「囁き」がシシーにこう告げている。
「『この子は私と長く一緒にいることはない』今まで忘れていたけれど、それが本当のことになってしまった。2月のあの日に」
シシーは未だに時々、自分の娘がどこにいるのかわからず、彼女を探して泣きながら目を覚ますことがある。
「ベッドを出て、目をこすって、顔を洗って、またベッドに戻る。それしか私にはできない。」と彼女は書いている。「娘と過ごせた48年間という贈り物を私に授けてくれた神に感謝しています。神はいつ、あの子を連れて行くべきかをご存知だった。私は(神の判断)を受け入れます。」
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Cissy Houston’s Top 7 Revelations about Whitney Houston