「ホイットニー・本当の自分でいさせて」から学んだ8つのこと 米ローリング・ストーン誌

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whitney Can I Be Me
Whitney Can I Be Me

2017年、ホイットニー・ヒューストンの1999年のヨーロッパ・ツアーを軸に、幼少期から突然の死までを追ったドキュメンタリー「Whitney: Can I Be Me」邦題は「ホイットニー: 本当の自分でいさせて」が、動画配信サービスのNetflixで配信された。監督は「ビギー&トゥパック」や「カート&コートニー」のニコラス・ブルームフィールド。

本作はヒューストン一家やクライブ・デイビスの不参加にも関わらず、期待以上に見応えがあり、説得力のある作品。家族やクライブ達の不在が、このドキュメンタリーに新鮮な角度をもたらしている。

特にデビュー当時のアリスタのエクセクティブ達のコメントは興味深い。人種差別が残っていた80年代の音楽業界の中、ホイットニーという究極のポップスターを作る過程が語られる。

映画中、数あるインタビューの中でも、バックグラウンド・シンガーのパティ・ハワード、そしてサクソフォン・プレイヤーのカーク・ホエイラムの私達を教え諭すような静かな言葉が胸を打つ。

以下は2017年8月25日付けのローリング・ストーン誌記事ドキュメンタリー「『ホイットニー: 本当の自分でいさせて』から私達が学んだ8つのこと 」米ローリング・ストーン誌 インタビュー日本語訳。


8/25/2017 

ローリング・ストーン誌 インタビュー
Whitney Houston Doc ‘Can I Be Me’: 8 Things We Learned

By Elias Leight
Translation by HRS Happyman

監督ニック・ブルームフィールドは新しいドキュメンタリー、「ホイットニー: 本当の自分でいさせて」によって、世間のホイットニー・ヒューストンに対する考え方を変えようとしていた。

「僕らは何かと理由をつけては、人に二度目のチャンスを与えることをしない。彼女はドラッグ依存に関して酷く世間に批判され、こき下ろされたけど、何が彼女をドラッグに向かわせたのか、それが一体何だったのか、その理由をきちんと理解しようという人は、ほとんどいなかった」とニックはローリング・ストーンに語った。

「彼女の問題を理解するには、全く違ったアプローチがあるということを、
僕は多くの人々に知ってもらいたいたかったんだ」

この映画は過去の未公開映像や1999年のドイツでのツアーの様子、一緒に仕事をしたミュージシャンや、友人、かつてのレコード会社の役員たちのインタビューをフューチャーすることでその目標を遂げている。

この最新ドキュメンタリーから、私達がホイットニーについて学んだ8つのことを挙げてみよう。


1:ホイットニーは幼い頃から周りに
ドラッグのある環境で育つ


この映画ではホイットニーが2012年に48歳という若さで亡くなった原因の一つ、彼女とドラッグとの関わりについて多くの時間を割いている。ホイットニーが世界的なスターになり、ボビー・ブラウンに出会うずっと前に、すでに彼女の周りにはドラッグがあったことをこの映画は主張している。ホイットニーの兄、ゲイリーが初めてヘロインを試したのは、わずか10歳の時であった。

「ホイットニーと出会ったのは私たちがまだティーンの頃だったけど」ホイットニーの長年の友人であるエリン・ラヴァーはこう語る。「彼らは(ホイットニーと兄達)はドラッグをしていたわ。出かけて、騒いで、飲んで、少しドラッグもする。誰もがしていたことよ。ホイットニーに(ドラッグを)与えていたのは彼女の兄達よ」


2:クライブ・デイビスはホイットニーを
白人向けのマーケットに攻撃的にプッシュ


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「クライブはポップ・ミュージックの天才だ」元クライブの同僚、アリスタのエクゼクティブだったケネス・レイノルズは語る。「彼にはポップ・アーティストに対するビジョンがあったのさ。ディオンヌ・ワーウィックやアレサでそのビジョンを試そうとしたけれど、其の頃までに彼女達に対するイメージはすでに固まってしまっていた。そこへやってきたのがホイットニー。彼女はまだ何にも染まっておらず、その役を務めるのには完璧だったのさ。

レコード会社にはこんなビジョンがあったんだ。大衆に愛され、白人中心のアメリカに受け入れられる『ポップ・アイコン』をつくりだすんだ、ってね。少しでも『黒人寄りすぎる(Too black)』と判断されたものはスタジオに送り返された。『黒人寄りすぎる』って表現に問題があるなら、『ちょっとジョージ・クリントン(ファンク)寄りすぎないか?』『ファンカデリックすぎる』『R & Bすぎる』という表現で。

我々が求めたのはジョニ・ミッチェル、バーバラ・ストライサンドのようなアーティスト。『女性版ジェームス・ブラウンは必要ない』ってね。」

クライブ・デイヴィスはこの映画のインタビューには応じておらず、
以前収録された映像の中で姿を見せるのみである。


3:黒人のオーディエンスに「裏切り」を感じさせた
ホイットニーのPOPマーケットへの露出


全米チャートで7曲連続のナンバーワンヒットを記録し、彼女のメインストリームでの人気がピークに達し始めた頃、ホイットニーは1989年のソウル・トレイン・ミュージックの式典でブーイングを受ける。

「ホイットニーは(白人マーケットへ身を売ったことで)ブラック・コミュニティーを裏切ったと見なされていたんだ。」アリスタの元幹部であり、R & Bプロモーションを担当していたダグ・ダニエルズは語る。

「決していい気分じゃないわ。『彼ら、私に向かってブーイングしているの?』

行儀よく、問題がないかのように振る舞いながら、その場に座っていなければならなかった。詰まる所、私の音楽には彼らを満足させるだけの『ブラックさ』がなく、ポップ寄りすぎるってことなの。白人のオーディエンスが私を奪い去ってしまった、ってね」


4:ホイットニーはレコード会社の与えた方向性に反抗


「ソウル・トレイン・授賞式でホイットニーが受けたブーイングはホイットニーにとって厳しい経験だっただけじゃなくて、彼女の内側を深く傷つけたんだ。彼女はあの時受けた打撃から最後まで立ち直れなかったと僕は思う。最終的にホイットニーを滅ぼすことになった理由の一つさ」とホイットニーとツアーを共にしたサクソフォン奏者のカーク・ホエイラムは語る。

「ホイットニーは自分の音楽のスタイルをブラック・ミュージックに戻すよう
レコード会社に要求した。その結果生まれたアルバム、「I’m Your Baby Tonight」はクライブ・デイビスがそもそも作りたかったアルバムではなかったんだ。

でもホイットニーは言い放った。『私はあなたが作りたい音楽を作る気はないわ。私は自分で自分のすることを決めるわ』」

映画「ボディガード」の未曾有の成功の後、ホイットニーは再びプロデューサーのベイビーフェイスとタッグを組み、「ため息つかせて」のサウンドトラックを製作、そして1998年にはロドニー・ジェーキンズらなどの新鋭R & B プロデューサーと組み、「My Love Is Your Love」をリリースしている。


5:「オールウェイズ・ラブ・ユー」のイントロのアカペラは
ケビン・コスナーによるアイデア


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音楽プロデューサーのデイビッド・フォスターは、もともと「オールウェイズ・ラブ・ユー(I Will Always Love  You)」に徹底したオーケストレーションを施すことを考えていた。

だが撮影中、ケビン・コスナーは曲のイントロをホイットニーがアカペラで歌うことを提案。フォスターはこう語る。「『ケヴィン、それはばかげた考えだ。アカペラだって、冗談だろう?ラジオがそんな曲をプレイするわけがない』

でも、スタジオでホイットニーが『If…I…』と歌い始めたのを聞いて、『オー・マイ・ゴッド、これはなにかの間違いだろう?僕の人生の中で最も素晴らしい経験だった。その時からこの曲のイントロはアカペラしかない、と悟ったのさ」


6:ホイットニーのセクシャリティーについての答えを求め、
ラジオDJ達はレコード会社にしつこく質問


ラジオ局はホイットニーの私生活の中でも、特にホイットニーと昔からの友人であるロビン・クロフォードとの関係についてこぞって詮索し始めた。「彼ら(ラジオDJ達)は99.9パーセントの確率でストレート、そしてそれより更に高い割合で同性愛者について嫌悪感を持っていた」とレイノルズは語る。

他のアリスタの幹部もこう述べている。「ラジオ局の連中から電話が入ってこう聞かれるのさ。『ヘイ!ホイットニーがレズビアンって本当か?』俺はいつも答えたよ、『一体何のことを話してるんだ?』

この映画ではホイットニーの人生にボビー・ブラウンが登場(ホイットニーはブーイングを受けたソウル・トレイン授賞式でボビーに初めて出会っている)して以来、ロビンとボビーはどちらもホイットニーの注意を引こうとして争っていたと示唆している。

80年代、90年代を通じてホイットニーのチームにいたロビンは、1999年のドイツでのコンサートの後、彼女の元を去っている。

ロビンはこの映画の中では80年代と90年代からの映像に、フラッシュバックとして登場しているのみで、ホイットニーとの関係については何も明かしていない。

ホイットニーの母、シシー・ヒューストンは2013年、オプラ・ウインフリーとのインタビューの中で、娘のホイットニーが他の女性とロマンチックな関係を持つことなど決して許さなかっただろう、と発言している。

「もしホイットニーがレズビアンだったら、あなたを不愉快な気持ちにさせたかしら?」と尋ねるオプラにシシーは「勿論よ」と答えている。


7:内部者が提出したホイットニーのドラッグ使用に
関するレポートは無視された


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ホイットニーが初めてドラッグのオーバードーズ(過剰摂取)したのは、映画「ため息つかせて」の撮影期間中だった。またホイットニーの実のボディーガード、デイビッド・ロバーツは、「惨憺たる結果」となった1995年のシンガポールでの公演のあと、「ホイットニーのキャリアを担当している家族のメンバーに向けて」レポートを提出している。

ホイットニーの取り巻き達は麻薬を隠してシンガポールに持ち込み、皆ドラッグの使用をやめることはなかった。ホイットニーの声のコンディションはさらに悪化し、それは一部彼女のドラッグの使用が理由であった。

「(ツアーでは)誰もがドラッグを使っていた。ここまでくるともう程度の問題だった」とロバートは振り返る。「それを私はレポートにして提出したんだ。その後電話が鳴り、ミーティングが開かれた。

『ミス・ヒューストンは今後海外をツアーする予定はなく、優秀で経験のあるあなたのようなボディーガードを必要としなくなりました。今までどうもありがとうございました。』それが彼女を助けよう、と思って提出したレポートに対する答えさ。」


8:ビヨンセをはじめとする、
後に続く黒人女性アーティストのために道を切り開いた


ホイットニーのバックグラウンド・シンガーのひとり、パティ・ハワードはこう主張する。「ビヨンセや他の黒人の女性アーティストがチャートのトップを飾る、そんなことはホイットニーがデビューするまで決して起きなかった。当時、彼女は私達(黒人女性アーティスト)のために歴史を変えたの。そしてその代償を払ったのも彼女だった。」

映画が悲劇的な結末に近づく中、パティはこう加える。

「それなのに、この世界に彼女が残した貢献について感謝する気持ちは、一体どこにあるの?」

出典:参考
https://www.rollingstone.com/music/music-features/whitney-houston-doc-can-i-be-me-8-things-we-learned-196537/

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