「歌手ホイットニー・ヒューストンが誕生するまで」パート4: シシーの与えた試練と父親ジョン

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Photo: Bette Marshall

出典・参考記事:”Remembering Whitney: My Story of Love, Loss, and the Night Music Stopped” by Cissy Houston
Text & translation: HRS Happyman


1: マウント・セイント・ドミニックアカデミーへ転校



ホイットニーは地元ニュージャージーの公立小学校フランクリン・エレメンタリーに入学したが6年生の頃、マウント・セイント・ドミニックアカデミーというカソリックの女子校に転校している。生徒はほぼ全員が白人だった。高校までエレベーター式で、いじめの経験や教育水準を考えシシーが決定した。

ホイットニーは抵抗した。フランクリン・エレメンタリーを卒業後、音楽のプログラムで有名なシシリー・タイソン・パフォーミング・アーツへ進むのがホイットニーの夢だった。シシーは一才取り合わず、自分の命令に従わせた。金持ちの娘が多く通うこの私立の学校でもホイットニーは親友を作ることができなかった。近所に住む女の子達から更に意地悪な目で見られる羽目になった。


2: タレント・コンテストに出場



一方、ホイットニーはシンガーとして日々成長していた。14歳の時にニュージャージー州のタレント・コンテストに参加し、バーブラ・ストライサンドの「エバーグリーン」を歌った。

数ヶ月前から選曲、アレンジメント、コスチュームにいたるまで念入りに準備したにも関わらず、ホイットニーは優勝出来ず、2位で終わった。パフォーマンスに与えられた時間を超過したからだった。これは二人を大いに落胆させた。二人とも優勝が当然と考えていたからである。

皮肉にも優勝した女の子が歌った曲は「グレイテスト・ラブ・オブ・オール」だった。ホイットニーは心底がっかりしたが更に練習を重ねた。

その後マンハッタンにあるタウン・ホールで開かれたシシーのコンサートでホイットニーはミュージカル「アニー」の「トゥモロウ」をソロで歌った。その際も観客による圧倒的なスタンディング・オベーションを経験している。

3: ディスコ曲「ライフ・イズ・パーティ」での初のソロ



またシシーと参加したマイケル・ゼイガーのディスコ・アルバム「ライフ・イズ・パーティー」のタイトル・トラックでは若々しいボーカルを披露している。ホイットニーは14歳だった。ゼイガーはホイットニーの声に驚き、即座にホイットニーのプロデュースを申し出たが、シシーは断固として却下。「あの子が高校をするまでは誰にも契約はさせないわ」

後にルーサー・ヴァンドロスが熱狂的に契約を申し出た時もシシーは同じ返事を繰り返した。


4: 「アイム・エブリ・ウーマン」のレコーディングに参加



シンガーのチャカ・カーンがソロ・デビューアルバム「チャカ」の制作をしていた1978年頃の話である。シシーはバックシンガーとしてセッションに参加しており、チャカに「私の娘が最近歌うようになってきたの」と話す。

「あら、いくつなの?」
「15歳よ」
「いいじゃない。連れてきなさいよ」

シシーにあっさりホイットニーを連れてくるように言ったのは、チャカがシシーのプロフェッショナリズムに100%の信頼を寄せていたからだ。そして15歳のホイットニーがプロとしてスタジオ入りし、バックグラウンド・ボーカルをレコーディングしたのが「アイム・エブリ・ウーマン」である。後にカバー・バージョンがホイットニー自身の大ヒットとなった

チャカはリハーサル中、バックボーカルに瑞々しいサウンドが加わったことに気づいた。バンドを止め、ホイットニーに一人でその箇所を歌わせた。あらいいじゃない。とチャカは思った。チャカは大きな笑顔を見せてこういった。「ほら、もっとマイクに近づいて!」尊敬するアイドルから自分の声を認められたような気分になったホイットニーの中に喜びが広がった。

5: シシーが仕掛けた究極のテスト



シシーは15歳のホイットニーを自らのナイトクラブのショーに出演させ始めた。そして通常2曲ほど娘にソロを歌わせた。観客はこの新しい才能に一瞬で魅了された。「トゥモロウ」「エバーグリーン」「グレイテスト・ラブ・オブ・オール」はその頃よく歌われたレパートリーである。ホイットニーはソロを歌う時以外はシシーのバックボーカルを務めた。


ある日、シシーがガラガラの声でホイットニーの元へ来る。「ニッピー。どうやら風邪をひいてしまったみたいなの。喉が痛くてたまらない。今日のショーはお前が一人で引き受けておくれ」と弱々しく呟く。

ホイットニーは恐怖で凍りつき、叫んだ。

「ママは声がガラガラの時でもショーは完璧にこなすじゃない」

「今回ばかりはダメ」

「そんなこと急に言われたって」

(ドスを利かす)黙ってお聞き。話すのも辛いんだ。
お前は全曲覚えているし、大丈夫。任せたよ」

一方的に言い残して、シシーはノソノソとベッドルームへ戻って行った。シシーの命令に対してNOという答えは存在しない。パニック状態のホイットニーを載せた車(父親ジョンが運転)はニュージャージーを出発し、マンハッタンのクラブ「ミケルズ」に到着。満席の中、数人の観客がシシーの不在を告げるアナウンスに眉を顰めるなか、ホイットニーはマイクの前におずおず進み出た。

ステージの上のホイットニーは自信がなく、頼りなさそうだった。自己紹介に慣れていないため、ボソボソと何か口籠っている。普段シシーがステージが使うセリフをそのまま繰り返しているようだ。全く芸がない。

ジョンはハラハラした。ホイットニーも観客も、見守っている父親のジョンにも居心地の悪いスタートとなった。

だが一旦歌い始めると、やはりホイットニーの声は本物だった。観客は即座に特別な何かに気が付いた。自然に喝采が沸いた。ホイットニーはリラックスし始めた。その声には更に力強さが加わっていった。

伸びやかなボーカルと繊細な表現力は、今や観客の全員を陶酔させていた。ホイットニーの身のこなしには自然な上品さがあり、アップテンポの曲では会場中が心地良く揺れた。ショーの終わりまでに観客はシシーをのことを忘れ、完全にホイットニーの虜となっていた。ホイットニーは会場中の笑顔と盛大なオベーションに包まれた。

興奮のまま帰宅したホイットニーをシシーは思い切り抱きしめた。娘が誇らしくてたまらなかった。ガラガラ声はウソ、全てはシシーの演技だった。ホイットニーはこれを知って白目を剥いたが、これがシシーが与えた究極のテストだった。そしてホイットニーは見事にそれをパスしたのである。シシーは娘の準備が整ったことを確信した。

ホイットニーは16歳の時、1979年に母親と共に初来日している。シシーが東京で開催されたヤマハ音楽歌謡祭にノミネートされたからである。ホイットニーの初の海外旅行先は意外にも日本だった。



6: 父親ジョンの心臓の発作
続く性格の変化


ホイットニーはこの頃モデルの仕事も初めており、学校、クワイアの練習、母親とのセッションやリハーサルとかなり忙しい日々を送っていた。ホイットニーの兄ゲイリーはシカゴの大学へ通学中、もう一人の兄のマイケルもカンザスのコミュニティ・カレッジへの進学が決まり、経済的な負担がこれまで以上に増え始めていた。

シシーは相変わらずバックグラウンド・シンガーの仕事を続けていたが、この頃までに父親ジョンも主夫を卒業し、市役所でフルタイムで働いていた。仕事が終わった後もシシーやホイットニーをスタジオやクラブへの送り迎えしなければならなかった。

そんなある日、夜更けに電話が鳴る。ジョンが心臓発作で倒れたのである。電話を取ったのはホイットニーだった。ジョンの発作は深刻なものだった。家族は日夜祈り続けた。1週間の入院後、ジョンは帰宅が許された。医者は退院の際、シシーにジョンの性格が変わる可能性があることを仄めかした。

その後本当にジョンの性格が変化し始めた。56歳だった。ジョンは自分がもう若くないことを突然、悟ったのである。

若い頃軍隊の入隊経験を持つジョンは、野心家で自分に自信があった。だが発作を起こした今になって突然、人生の全てに怒りを感じ始める。ジョンは心臓発作の原因はシシーだと考え始めた。

白人なら可能なことも黒人の俺には出来ない。音楽業界でもっと成功できたはずなのに、何故俺は失敗したんだ。それはシシーが俺のマネージャーとしての能力を信用しなかったからだ。

それを怒りを込めて口にするようになった。ジョンが心臓発作を起こしたのはシシーがスターとして成功できなかったからだなどと言い始めた。お前は俺のアドバイスにもっと耳を傾けるべきだった。それを聞かなかったからお前は成功しなかったのだ。

シシーは初め冗談だと思っていたが、彼女への攻撃は日毎に過激なものになっていった。二人は激しく衝突するようになり、かつて笑い声で満たされていたドッド・ストリートの家はホイットニーにとって急に悲しく憂鬱な場所になっていった。

出典・参考記事:”Remembering Whitney: My Story of Love, Loss, and the Night Music Stopped” by Cissy Houston

Photo: Bette Marshall

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