今後ホイットニー・ヒューストンを超える国歌斉唱が生まれない理由とは
Text & Translation by HRS Happyman
記憶に最も残るホイットニー・ヒューストンのパフォーマンスといえば、多くの人は1991年の第25回米スーパーボウルでの国歌斉唱が挙げるであろう。
毎年スーパーボウルのイベントが近づくと各メディアは過去の国歌斉唱ベスト10を発表するが、ほぼ例外なく一位に選ばれるのがホイットニーのパフォーマンス。最盛期にあった彼女の歌唱は「国歌斉唱の黄金のスタンダード」と称され、30年以上過ぎた今も揺るぐ気配がない。
『今後ホイットニー・ヒューストンを超える国歌斉唱を耳にすることがあるのだろうか?』誰もが考える質問だ。残念ながらその可能性は極めて低い。今回はその理由を考えてみよう。
ホイットニーがデビューした80年代にはステファニー・ミルズ、フィリス・ハイマン、ジェニファー・ホリデイ、キャリン・ホワイト、オリータ・アダムズ、ロシェル・フェレル、シャーリー・マードック等、実力のあるR&B女性シンガーが多数デビューしている。
一方、Chat GPTに現在(2025年1月)のベストR&B女性ボーカリストを尋ねるとSummer WalkerやSZAの名前が挙がる。
ここで比較しているのは音楽性や才能ではない。ボリューム、質感、音楽性。オリジナリティやクリエイティビティを度外視して、ピュアに歌唱力にフォーカスすると2つの時代には明らかなクオリティの差がある。このギャップは何によってもたらされたものなのだろうか?
1)アメリカ音楽教育の変化
「達人の域に達するには1万時間の練習」が必要と言われるが、アメリカではかつて公共教育を通じてトレーニングを積みプロのシンガーを目指すことが可能であった。これは1935年に民主党大統領フランクリン・ルーズベルトが発足した『フェデラル・ミュージック・プロジェクト』(Federal Music Project )がもたらした恩恵である。
このプロジェクトは世界恐慌によって職を失ったアーティストやミュージシャンの雇用促進を通じて経済促進を狙ったものだが、その結果アメリカの公園やストリートは音楽やアートで溢れることになった。
ホイットニーが育った1960年や70年代、市民は公園などでオペラやシンフォニーなどの質の良い音楽を無料で触れるだけでなく、アートや歌、楽器のレッスンを公民館などで無料で受けることができた。こうして音楽がもっと身近な形で存在したのである。
50年代から70年代にアメリカがジャズ、ブルース、ポップ、ロック等のジャンルで革新的なヒット曲をを生み出し続けた背景にはこうした土壌があってのことと言えるのではないだろうか 。
またこの時期に音楽が公共教育の一部として正式に取り入れられる。1966年に黒人女性として初めて「カルメン」の主役を演じたオペラ歌手、グレース・バンブリーは当時の公共教育を振り返ってこう語る。
「毎日1時間半のボーカル・レッスン。そして土曜日にはプライベートのレッスン、それが4年間(アメリカの高校は4年制)全て無料よ。こんな話今じゃ聞かないわよね」
またこの時代は合唱部の活動も活発で、さらなるトレーニングの場となった。学校教育をトレーニングの一環にしたシンガーには従姉妹のディウォンヌ・ワーウィック、フィリス・ハイマンなどがいる。経済的に恵まれなくても才能が認められれば大学も奨学金で進むことができた。
だが80年代に入りアメリカの学校教育に大きな変化が起きる。1982年に共和党レーガン大統領がアートや音楽教育に対する国家予算を大幅に削減。その結果貧しい地区では教師を雇うことができず、カリキュラムが削られる事態へと続く。
国家レベルでの予算削減により、これまで無料で提供されてきたコンサートやプログラムも次々廃止されていく。質の良い音楽に触れたり吸収する機会、そして発掘のチャンスも失われていったのである。
因みにホイットニーが高校を卒業したのが1981年。こうした恩恵をフルに経験できた最後の世代であった。
2)深刻化する黒人若年層の教会離れ
実はホイットニーの場合、公共教育から音楽的な影響はそれほど受けていない。その変わり彼女が徹底的なトレーニングを積んだ場所は「黒人教会」だった。アフリカから連れてこられた奴隷達が黒人霊歌を歌ったのがブラック・ゴスペル(福音)の始まりだが、当時の歌唱テクニックはオペラやクラシックに近いものだった。
シンガーにとって黒人教会は正しい発声法を身につけ、ハーモニーや音楽理論を長期間に渡って喉を鍛えるための貴重な場所であった。特に1950年以降、ゴスペルの人気に火がつき、ゴスペル・サーキットと呼ばれるツアーやクワイヤ・コンテストも全国で開催されるようになるとシンガー達はトップの座(と賞金)を目指して鎬を削った。州内でのコンテストも頻繁に開かれ、クワイア毎の音楽的クオリティも飛躍的に向上していく。
ゴスペルはこれまでアリサ・フランクリンやパティ・ラベル、グラディス・ナイト、スティービー・ワンダーなど優れたシンガーやミュージシャンを数えきれないほど輩出している。
だがその黒人教会にも変化が訪れている。2023年の Pew Research Centerのレポートは黒人のミレニアル世代とジェネレーションZ 世代の半数近くが教会に足を運ばなくなったと指摘。そうした傾向が新人達の歌唱力にダイレクトに響いているようである。ホイットニーが活躍した90年代にもゴスペル出身の実力派新人シンガーが多数登場したが、近年はそうした存在の登場を滅多に見なくなった。
3)音楽的家系と母親シシー・ヒューストンの存在
ホイットニーの音楽的家系についても触れておきたい。名ゴスペル・シンガーとして知られるシシー・ヒューストンを母親、初のクロスオーバー歌手、ディウォンヌとディーディー・ワーウィックを従姉妹に持ち、アリサの雄叫びを母乳に育ったのがホイットニーだ。またあまり知られていないがオペラの名ソプラノ歌手、レオンティン・プライスもホイットニーのいとこである。
だがホイットニーの歌手としての最大の幸運は、シシー・ヒューストンを母に持ったことだった。シシーは60年のキャリアを誇る実力派ゴスペル・シンガーで、ホイットニーは幼い頃から母親と共にスタジオに出入りし、歴史的なセッションの数々を目撃して育った。またシシーはクワイアのクオリティの高さで有名なニューホープ・バプティスト教会の音楽監督を務めており、ホイットニーの強い牽引力となる。
ホイットニーは12歳の頃に「将来シンガーになりたい」と宣言し、直後に母親による鬼の特訓がスタートする。シシーは教会で元々厳しい音楽監督として知られていたが、特に娘に対しての厳しさは語り草になるほどだった。
シシーは常にベスト以上を求め、妥協や言い訳は一才許さなかった。リハーサル中気に入らない箇所があるとホイットニーを容赦なく怒鳴りつけ、その場で徹底的にやり直させた。モタモタしているとシシーの意地悪な言葉が次から次へと襲い掛かる。
シシー自身が後に著書「Remembering Whitney」でうち明けている。「(練習中)私はあの子に本当に厳しく当たった。他人の子供だったらとてもああは出来なかっただろう。でもそれが私が教えられたやり方だった。」
16歳の時には彼女の声は充分に成熟しており、デビューのオファーがいくつか持ち込まれている。ホイットニー本人も一刻も早いデビューを望んでいた。だがシシーは断固として却下し、まずは高校を卒業すること、そして更なる練習を娘に命じた。こうして既に完成しつつあったホイットニーの声はさらに「熟成」の期間を持つことになった。
クワイアばかりでない。シシーはスタジオ・セッション、ナイトクラブ出演、コマーシャル・ソングと次々に娘にチャレンジを与えた。こうしてホイットニーはさまざまな場で経験を積み、柔軟性と洗練さを培った。極めて実践的で効率的なトレーニングと言えた。同じ1000時間のトレーニングでもホイットニーは他のシンガーとは比べ物にならないくらい充実した環境で過ごしたのである。
シシーのような飛び抜けた経験と実力、厳しさを持ったコーチを見つけること自体が不可能に等しいうえ、現在はそうした厳しさを耐え抜いて自分を伸ばせる人材も稀かもしれない。
4)ソーシャル・メディアの弊害がない時代
現在若者層(14歳から24歳)は1日2時間をソーシャル・メディアに費やすと言われる。だがホイットニーが育った頃、一般家庭の娯楽と言えばテレビとラジオ、レコード程度で、インターネットやソーシャルメディアが存在しなかった。社会に娯楽的要素が少ない分、現在よりも大切なゴールにフォーカスしやすい時代だったと言えるだろう。これだけで一年で700時間以上の差がつくのだ。
ホイットニーの歌唱力を「天賦の才能」と呼ぶ声は多い。だが彼女の声が出来上がった背景は一流アスリートのものと似ている。彼女の歌声は生まれ持った資質に加え、考えうる限り最も理想的な環境で徹底的なトレーニングを積むことで完成したものだ。それがあの伝説的なパフォーマンスの背景であり、今後誰も超えることができない理由なのである。
セリーナ・ウイリアムズ、マイケル・ジョーダン、故コビー・ブライアントらの超一流アスリート達がこぞってホイットニーへの賛辞を惜しまなかったのは、厳しい訓練のみがもたらす奇跡を、彼女のボーカルから聴き取っていたからではないだろうか。
参考:
Cissy Houston ”Remembering Whitney”
Robyn Clowford ”A Song For You”
Black Music Archive (YouTube) ”Why New Girls Can’t Sing”