「歌手ホイットニー・ヒューストン」が誕生するまで:幼少期 パート1

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歌手、ホイットニー・ヒューストンは一体どんな幼少期を送ったのか。幼少期の過ごし方はその後の人生に大きく影響するものだ。2013年に出版された母親シシー・ヒューストンの著書『Remembering Whitney』に親しみを込めて描かれたホイットニーの幼少期の様子と、この時期に彼女が学んだ『人を守るための嘘』についての考察。

// 父親っ子ホイットニー

シシーは1963年8月9日、ニュージャージー州のニューアークでホイットニーを出産。不思議なことにシシーはホイットニーを抱いた瞬間「この子はこの世に長くいないのでは」との思いが頭をよぎった、と著書で明かしている。

一家の大黒柱だった彼女は、バックシンガーの仕事のため、数ヶ月後にはスタジオに戻る。仕事が不安定だった父親のジョンは家では主夫を務め、シシーをスタジオまで送り迎えし、子供達の食事を作った。そして幼いホイットニーの面倒を見た。

ホイットニーは乳児の頃、毛布を蹴って、ベッドから落とすくせがあった。何度かけ直してやっても、落としてしまう。落とすたびにジョンが走ってきて、毛布をかけ直してやるのだった。

初めて娘を持ったジョンはホイットニーに完全にメロメロだった。この幼少期にできた深い絆が、ホイットニーが父親と非常に親しい関係にあった理由の一つである。

また生後6ヶ月後には歩き始め、周囲は仰天した。一旦歩き出すと、今度はものをひっくり返したり、どこかに潜り込んでみたり、いたずらが絶えない。父親のジョンがホイットニーにつけた「ニッピー」というニックネームは、新聞の4コマ漫画に登場するいたずら好きの女の子「ニッピー」からとられたものだった。

シシーが幼児のホイットニーを銀行やスーパーへ連れていく。目を離すとは他人にヨチヨチ歩み寄っては『グッド・モーニング!グッド・モーニング!』と知り合いかのように挨拶をしている。それを見たシシーはカッと目を見開き、『ニッピー!』と太い声で叫ぶ。『知らない人に近づいて、話しかけたりしてはいけないよ。おまえはあの人達のことを知らないじゃないの!』

そうすると、ホイットニーはシシーの目を覗き込んで、こう答えた。『オウ、マミー。イッツ・オーライ(心配しないでも大丈夫)』そしてこのフレーズが、周りの意見に耳を傾けたくたい時のホイットニーの口癖として定着した。

あまり多く知られていないが、ホイットニーの母シシーと父親ジョンが正式に結婚したのはホイットニーが生まれて一年後だった。ジョンの前妻との離婚が調停されていなかったからである。

// 愛された幼少時代


周囲から愛され、自由そのものだった幼少期はホイットニーの人生で最も幸せな時期だった。ホイットニーが7歳の頃、ヒューストン一家は暴動を避け、ニュージャージー州のイーストオレンジのドッドタウンに引っ越している。新しいドッド・ストリートの家には大きなプールがあり、夏になるとホイットニーは毎日プールで過ごした。週末には沢山の知り合いがやってきて、ジョンはハンバーガーやホットドックなどを振る舞った。家の中は笑顔と笑い声、そして音楽で溢れた。家の地下はリハーサル・スペースとなっていて、多数のミュージシャンやシンガー達が家を出入りした。その誰もがホイットニーを愛し、可愛がった。この頃すでにシシーは自らが結成したコーラス・グループ『スイート・インスピレーションズ」を脱退し、ソロ・アーティストとして活動を開始していた。相変わらず仕事で不在なことが多かったが、ジョンとシシーの間は親密だった。

学校が休みになると、ホイットニーは兄二人と一緒に従姉妹のディオンヌ・ワーウィックのツアーに同行することが許された。当時既にポップ歌手として成功を収めており、幼いホイットニーはこの時期にプライベート・ジェットや豪華なホテル滞在など、ショー・ビジネスのグラマーな面を体験した。ディオンヌが後にVH1のインタビューで、「あの子(ホイットニー)にルームサービスの使い方を仕込んだのは私よ」と打ち明けている。ディオンヌには息子が2人いたが、娘はいなかった。ホイットニーは彼女にとって娘のような存在だった。

ディオンヌはアメリカのポップ音楽史上、初のクロスオーバー歌手である。コクのあるユニークな声に加え、ステージの上の彼女には(こう言ってはなんだが)当時の黒人アーティストの中では珍しいほどの洗練さ、品格と優美さ、自然な威厳があった。マイクの持ち方。ふとした時に見せるセクシーな仕草。オーディエンスとのコミニュケーション。ユーモア。幼いホイットニーはそうした全てを憧れを持って吸収した。そして鏡の前で真似をした。プロになってからのホイットニーのステージ上での身のこなしはディオンヌそのままである。

ディオンヌ・ワーウィック「ウォーク・オン・バイ」



シシーは幼いホイットニーを仕事のセッションに時々連れて行くようになった。さまざまなミュージシャンやシンガーがホイットニーの行儀の良さと愛らしさを褒めた。シシーは誇らしかった。この時期にホイットニーはさまざまなセッションをスタジオで目撃したが、特にアリサ・フランクリンの歌には大きな感銘を受けた。アリサが名盤「チェイン・オブ・フールズ」をレコーディング中、母親と一緒にブース内に入れてもらっていたホイットニーが、アリサの声に感動して思わず声を出してしまい、シシーは娘をつまみ出さなければならなかったことがあった。

// 兄マイケル

ホイットニーには異父兄のゲイリーと兄のマイケルがいるが、2歳年上の兄、マイケルと特に仲が良かった。そしていつもマイケルの後をついて回った。子供の頃からマイケルは短気で喧嘩っ早かったが、(その点はシシーに似ていた)が、人情に厚く優しいところがあり、面倒がることもあったが、よくホイットニーの面倒を見た。

その頃、二人が好んだ遊びのひとつは『バレリーナ』というものである。『来い!』とマイケルが叫ぶと、ホイットニーが廊下を猛ダッシュする。その先にはマイケルが立っている。体の片脇に両腕で輪を作り、中腰で構えている。

勢いをつけたホイットニーは水泳のような構えをして、マイケルが作った腕の輪のなかに、ズボっと飛び込ぶ。これが「バレリーナ」である。(爆)バレリーナというよりは漁師が飛び込んできたマグロを抱えるようなものだった。そしてマイケルが抱き止められない場合はホイットニーはモロ顔面から床に落下した。それでも二人は笑い転げながら立ち上がり、何度も繰り返すのだった。

// 教師になりたかったホイットニー

教師だった祖母を非常に尊敬していたホイットニーは「学校ごっこ」も大好きで、将来は先生になりたかった。いとこ達が遊びに来たときは、彼らに生徒の役をさせ、自分が教師の役をした。メガネを逆さにかけて、おもちゃの黒板を出す。そこにチョークで何か書きつらねながら、いとこ達の前で授業のまね事をした。

マイケルは初めのうちは『ホイットニーの授業』とやらを聞いているふりをしていたが、年上のマイケルにとって面白い内容なわけがない。途中で飽きてキョロキョロし始める。

マイケルの注意散漫な様子を目撃したホイットニーは、ツカツカと近づき、いきなりマイケルの頭を物差しでピシャリと叩き、叫んだ。「あなたは停学です!」マイケルはひゃーッと叫んで叩かれた頭を抱える。周りの子供達は、どっと笑い転げた。するとホイットニーは笑った子供を物差しを持って追いかけ始めた。「あなたも停学よ!」「あなたも!」

子供達は更に興奮してキーキー騒ぐ。その様子を見てシシーは呆れた。結局いとこたちも小さなホイットニーのことが大好きだったので、叩かれても気にならなかったである。

// ホイットニーはシェールの大ファンだった

またホイットニーは小さい頃、シェールの大ファンでもあった。当時のテレビ番組「ソニー&シェール」の影響である。ショーはコメディと音楽ゲストとのパフォーマンスや会話等の軽い内容だったが、大人気の番組だった。ホイットニーはこっそり地下室へおり、シシーの衣装箱を探る。鏡の前に座って、ドレスに腕を通してみたり、ウィッグを被ったりした。シシーのハイヒールを履いてコツコツと不器用に歩いてみた。果てにはそばにあった口紅やメイク道具も試して、気分は完全にシェールになっていた。

当時の人気番組『ソニー& シェール』の一コマ


それを見たマイケルは早速、シシーに告げ口に行った。だがシシーは取り合わず、放っておけ、と言った。そのうちホイットニーはいとこたちを説得し、バンドのマネをさせるようになった。そしてマイケルにソニー役(シェールの元夫)をやれ、と強要した。番組の中では主題歌「I Got You Babe」をシェールとデュエットしなければならない。マイケルはやりたくなかった。だが、やらなければホイットニーが泣く。そうすれば叱られるのは自分だ。

仏頂面のマイケルにほうきを突き出すホイットニー。ほうきはギターの代わりなのだ。これを持って歌えというのである。さっきまで泣いていたホイットニーは、満面笑顔で声を張り上げて歌う。


「I GOT YOU BABE!!!」

一方マイケルは蚊の鳴いたような声でつぶやく。

「I..got…you..babe」

ホイットニーは更に声を張り上げる。

「I GOT YOU BABE!!!」

マイケルはやる気なく繰り返す。

「I..got…you..babe」

突然ホイットニーは叫んだ。

「ちょっとマイケル。音外れているわよ。ちゃんと歌えないの?ああおかしい!」としまいにはマイケルをバカにした。面白くないのはマイケルである。

しかもホイットニーはやたら演奏を中断し、どこかへ消えたかと思うと突然別なウィッグとドレスで登場してくる。本物のシェールのコンサート並みの衣装変化の数だった。自己陶酔する妹を見てマイケルは白目を剥いた。

またこの頃からホイットニーは暇な時に地下室に降りて、アリサ・フランクリンや母親のレコードを掛けて大声で歌うようになった。教会でソロを取るずっと前の話である。地下から聞こえてくる当時ホイットニーの歌声はひっくり返ったり、甲高くなってみたり、絶叫だったり、家族にとっては単なる騒音だった。父親のジョンは耐えかねてシシーに言った。「本当に耳障りだな。おい、なんとかしてやれないのか」

シシーは台所で皿を洗いながら答えた。

「放っておきなさい。もし将来歌を歌いたいなら、あれはあれで良い肺活量のトレーニングになるし」

// 人を守るための嘘

母親であるシシーはホイットニーとマイケルが子供の割に、他人に寛容な面を持っていることに気づいていた。それはそれで良いことである。(ホイットニーは幼い頃、シシーに『私はマイケル・ジャクソンと結婚して、自分もスターになって、ママにおうちを買ってあげる』と約束したことがある。)だが自分が買い与えたメガネやシャツなどを、二人が友人に次々にあげていると知ったときは、炎のように激怒した。シシーは友人たちの前で二人を引っ立てると、頭から怒鳴りつけた。「おまえたち、一体何を考えているの?なんで洋服や物をあげてしまうんだい?」

うな垂れて突っ立ったままのマイケルとホイットニー。どちらも『自分だけが何かを持つ』ということができない性格だった。自分のもっているものを友人に分けることは、二人にはごく自然なことに思えた。二人の周りには何ももっていない貧しい友達が沢山いる。自分たちは、もう十分持っている。大きな家もプールもある。だったら少しあげたって、良いじゃないか。

また幼い頃マイケルは、ホイットニーがしたいたずらの罪を自分でかぶることがあった。『これは誰がやったの?」と激怒するシシーに「ごめんママ。俺だよ」とマイケルは妹を守るために嘘をついた。

幼いホイットニーはこの嘘に大きな感銘を受けた。人を守るための嘘。そういう嘘なら、ついても良いようにホイットニーには思えた。神様も許してくれそうだ。そしてこれはホイットニーの生涯を通じて見られる特徴のひとつになり、必要に応じて使われた。不都合なことは全て嘘を持って否定した。ホイットニーの嘘には説得力と誠実さがあった。嘘は大事なものを守るために必要なものだったから、説得力があるのも当然だった。だが彼女が嘘を悪意のもとに使ったことは決してなかった。

後にホイットニーは自分を酷使し、他人や家族のために金を使い続け、夫ボビーのために嘘をつき続け、一切言い訳をしなかった。そしてそうした努力の全てが、娘のボビ・クリスを守るためと言えた。何も知らない世間はホイットニーを非難し、責めた。だが、ホイットニーはあまり気にしなかった。世間に対する信用を彼女自身が失っていたからである。彼女の中には明確な優先順序があり、神と家族以外のものは、あまり意味を持たなかった。

(パート2へ続く)

出典・参考記事:

”Remembering Whitney: My Story of Love, Loss, and the Night Music Stopped”

by Cissy Houston

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